「晴耕集」11月号 感想                     柚口満  

ただならぬ秋の暑さや先師の忌池内けい吾
 先師とは春耕創設、初代主宰の皆川盤水先生のことである。平成22年8月29日、朝9時33分、黄泉へと旅立たれた。
 この日のことは私にとっても強烈な記憶として残っている。訃報を伊吹山の山頂で受けた自分は、何はともあれ吟行仲間と別れて東京へ折り返したのであった。
 掲句にあるように暑い日で盤水晴れの一日であった。作者もその日の暑さを鮮明に思い出し盤水師の忌を修されたのである。

子別れの出来て鴉の声おだし朝妻力

 朝妻力さんの主宰誌「雲の峰」が創刊35周年を迎え昨年11月、その祝賀会が京都で開催されお祝いに伺った。おめでとうございます。
 さて句は鴉の子別れを詠んだ一句である。鴉の子育ての期間はほかの鳥と違い長く、秋になっても親から餌を分けてもらっていたりする。
 手塩にかけた子供がやっと親離れした時の鴉の声に注目した作者、その声はおだし(穏し)かったという。鴉という鳥、外見以上に愛情があることがわかる。

見えるものみな灼けてをり夫の墓古市文子

 先に取り上げた池内さんの句は初秋の暑さを詠んだものだったが、こちらは真夏の灼けるような暑さを詠んでおられる。最近の気候変動は深刻な問題を日本ならず世界中に投げかけている。
 亡きご主人のお墓参りでの句であるが、上五から中七の表現にその酷暑の状態が余す所なく描写されている。せめてもの供養とお墓にたっぷりとお水を捧げられたに違いない。

天牛を仕舞ひおきたき玩具箱萩原空木

 甲虫のカミキリ虫の造形美を一句に詠み込んだ作品である。伊藤伊那男氏に「天牛の髭の先まで斑を持てり」という一物仕立ての秀句があるが、かように天牛の姿は身体全体に白い斑点を持ち、キイキイと機械音を発したりして鍬形虫などとともに子供たちにも人気がある。
 作者はおそらく子供の頃からこの虫に興味を持っていたのだろう。その気持ちは玩具箱に仕舞っておきたいほどだという。老いても少年時代の夢を蔵している人の素晴らしさを思う。

あかときの余韻の深し風の盆高野清風

 富山県・八尾町の風の盆は9月の1日から3日間行なわれる行事で「越中おわら節」を奏でる胡弓、三味線などの哀愁を帯びた音色と踊は地元の人は勿論この踊りを愛でる人達が全国から大勢集まる。
 町ごとのブロック毎に町内を躍り回るわけだが、通の人は夜が白みかけたあかときの舞が最高だという。観光客が少なくなったときに踊る情趣豊かな雰囲気を作者もたっぷりと堪能したのだ。

糠床の底ひんやりと秋めきぬ酒井多加子糠床の機嫌とりつつ夏終る八木岡博江

  糠床は糠漬けを作るために糠に塩や水などを加えたもの。昔は各家庭にその家伝来の糠床があり美味しさを自慢したものだ。
  最近はまた、発酵食品ブームで糠漬けが見直され、初心者でも安易に作れる糠床セットを利用して自宅の漬物を楽しむ人が増えたという。
  多加子さんの一句、歴史に残る猛暑を経て糠床の底にひんやりとした床の感触に秋の感触を感じた句である。さてこれからは大根をつけてとこれからの手  順をあれこれと思案中といったところか。
 一方博江さんは、酷暑の中で糠床の管理に手を焼かれたことが偲ばれる句。その兼ね合いを、機嫌とりつつ、としたのが巧みである。こちらも夏を乗り切った糠床を元気づけ秋物の仕込みに余念がない。

盆灯籠肘掛け椅子が庭を向く望月澄子

 いろいろなお盆の情感が静かに流れるような俳句だと感じいった。中七から下五の省略が却ってその趣を深くする。庭に面した肘掛け椅子はかって新盆の仏さまが愛用されたもの、迎えた仏さまが在りし日のように庭を愛でるようにと配慮したものだ。隠世、現世の人達を静かに照らす盆灯籠の灯が印象的。

法師蟬止んで狐の嫁入りに坪井研治

 狐の嫁入りとは日照雨のこと、日が照っているのに雨の降る天気である。
 さっきまで法師蟬が鳴き合っていたのに、ぱったり鳴き止んだ瞬間に狐の嫁入りが始まった。雨が降ってから蟬が鳴き止んだのでは面白みに欠ける。

ときをりは風を作りて風鈴売真木朝実

 最近は町なかを歩く風鈴売りをとんと見かけなくなった。お祭りや縁日の屋台で見かけるぐらいである。
 掲句から伺えるのは、風のない日の風鈴売りの姿である。なかなか数がはけないなか、手持無沙汰の売り子が風を送る図、その笑えないペーソスが実にいい。