韓の俳諧 (71)                           文学博士 本郷民男
─ 亞浪の第二回旅行➄─

 1935年10月20日午後に、京城ホテルで「石楠」の「臼田亞浪師歓迎俳句大会」が開かれました。出席者は100人を越えました。司会は朝鮮石楠聯盟幹事長の小山空々堂(くくどう)(一徳・1886~1944)でした。京城高等工業の教頭と朝鮮総督府中央試験所の副所長という要職にいました。席題は秋一般で、高点句を少しあげます。
佛光散華櫻紅葉に照りあぐる
(博文寺)佐人
野分吹く白河の濁り打ち合ひね
(天津)亞浪
夕野分額にさす月をうしなひね
巨明
 佐人とは山田佐人(1907~1974)で、中央試験所の研究補助員でしたから、空々堂の部下です。亞浪が博文寺を訪問した時に、空々堂と共に同行しました。巨明は福永巨明として京城と兵庫県を行ったり来たりしていて、この直前に井澤巨明と名を変えて京城へ転勤していました。句会のあとは宴会で、11時にお開きとなりました。
 21日は夜汽車に乗るまで、休養日となりました。けれども客が押しかけて来るし、亞浪は「石楠」の主な人々の家を訪問しました。迎えの自動車が来て小山空々堂の家に行って、昼食を取りました。空々堂は官舎住まいですが、高位の研究職ですから大きな家でしょう。妹尾潭月(せのおたんげつ)の家にも行きました。本名が光太郎(1880~1937)で、製紙の技術を見込まれて中央試験所の技師に抜擢されました。もう退職して朝鮮石楠聯盟の顧問として、俳句を楽しんでいました。
 最後に訪問したのが、庄司鶴仙宅です。亞浪は朝鮮石楠聯盟を設立するにあたり、統制に西村公鳳、副統制に庄司鶴仙、幹事長に小山空々堂など、細かい指示を書いた手紙を送って来ました。鶴仙は自分が最大の功労者と思っていたので、副統制を断りました。推測ですが、亞浪は鶴仙の説得に行ったのでしょう。鶴仙は翻意せず、これ以後の動向が殆どわかりません。
 宿に戻って亞浪は2時間も揮毫し、夕食を済ませると京城駅から40人以上の人々に送られて、夜汽車に乗りました。随行は西村公鳳と石原沙人です。10月22日朝6時に大邱(テグ)で下車して乗り換えました。京釜線(キョンブソン)が慶州(キョンジュ)に行かないからです。大邱で案内役の美濃部禾舶(かはく)と合流して、慶東線(キョンドンソン)に乗りました。線路幅が762ミリしかない、トロッコのように小さな車両でした。車内から枯れた草原や黄色く染まった小さな山々が見え、深い霧がそれらを覆っていました。そして、かなり冷えました。
 9時38分に慶州へ着き、駅前の旅館で遅い朝食を摂りました。みな蕎麦が旨いとお代わりして、ビールも楽しんで車の到着を待ちました。