韓の俳諧 (75)                           文学博士 本郷民男
─ 亞浪の第二回旅行⑨

 1035年10月23日の朝飯前に、臼田亞浪は念願の石窟庵(ソックラム)を見て、待たせて置いた駕籠で下山しました。下りの駕籠が走るように早いので、美濃部禾舶と石原沙人が懸命に追いました。巨漢の沙人は、暗いから登ったけれど、昼ならこんな急な道を登れなかったと語りました。山道も終わる頃、脱落した西村公鳳がしょんぼりと待っていました。
山川の照り来れば舞ふ欅の葉公鳳
白露をながして葛のいろ浅き亞浪
 宿に戻っての朝食の美味しいこと。次は車で掛陵(ケヌン)へ行きました。参道に武官と文官の石人と獅子像が並び、陵の周囲を十二支像が囲んでいます。亞浪は石人の力強さに目を見張りました。掛陵に葬られた王には諸説がありましたが、慶州で小学校長などをしていた大坂金太郎氏が「掛陵考」という論文で新羅38代の元聖王陵と考証し、定説となりました。また武官の顔が西アジア系なので、新羅には西アジアの人々がいたという説もありました。しかし、仁王像や四天王像などの仏教の守護神が西アジア系の顔に作られるので、それを武官像に取り入れたという説のほうが正しいようです。
石人や石獅や秋日炎えながら亞浪
 次には蔚山(ウルサン)城へ立ち寄りました。「豊公時代に一番好きな加藤清正が辛酸をなめた籠城」と亞浪が書いています。明まで征服すると送り込まれた秀吉軍が、押し返されて半島の南海岸に多数の日本式の城を築いて立て籠りました。韓国では倭城と呼び、蔚山は加藤清正の城です。蔚山城は太和江(テファガン)の河口近くの北岸の小さい丘に作られています。1597年末の、築城が終わらない内に、明と朝鮮の大軍に攻められました。平城で防御が薄い上に、水と食料がなくて苦戦しました。戦死・餓死・凍死が続出する惨状を知った救援軍が駆け付け、清正は何とか脱出できました。熊本城には、この時の苦い経験を取り入れました。紅葉の山でカササギが喧しく鳴き、太和江の末に輝く海が見えました。櫻紅葉のあるは散りもす鵲(かち)かけり亞浪
 次いで通度寺(トンドサ)へ行きました。佛舎利を祀る名刹です。清流を石橋で渡ると雄大な境内となり、後方に霊鷲山が聳えます。建築や仏画の見所が多く、紅葉に秋蟬も楽しめました。山紅葉澄む時雲の渡りけり亞浪
秋蟬の水に響いて魚棲むか
扉の秋日うすうすと釋迦八相圖公鳳
佛舎利はしづもりおはす山紅葉沙人