鑑賞「現代の俳句」 (58)            望月澄子                                                                                         

夏休み最後の風呂も子を叱る村上鞆彦〔南風〕
[俳句 2025年11月号より]
 夏休みを親の立場から詠まれていてユニークだ。長い夏休みも楽しく過ごしているうちに、そろそろ終わりが近づいてきた。やり残した宿題が気になるのは、当の子供だけではない。親だって少々気になってくる。そしてとうとう最終日になり、明日から2学期だ。親子でのんびり風呂に浸かれば良いが、そうもいかなかったようで、ついお小言になった。どこの家庭でもありそうで「子を𠮟る」というほどの深刻さがなく、余裕を感じユーモラスだ。

先生を畑に訪ぬ帰省の子名村早智子〔玉梓〕
[俳句四季 2025年11月号より]
 都会へ出て間もない子だろうか。故郷に帰省した折に訪ねた先生は、母校の担任か部活の顧問か分からないが、畑作の最中であった。自分の成長した姿を見て安心してもらいたくて、わざわざ畑まで行ったのだ。
 掲句を一読して、宮沢賢治の住まいでもあった羅須地人協会の「下ノ畑ニ居リマス 賢治」の板書きが思い浮かび、二重写しとなった。
 義理固い生徒と先生とのほのぼのとした再会だ。先生は畑仕事の手を休め、教え子の成長ぶりを頼もしく思い嬉しかっただろう。

ロダン像考へ込むな天高し小島健〔河〕
[俳句 2025年11月号より]
 上野の国立西洋美術館の前庭には、ロダンの彫刻が飾られている。中でも岩の上で俯いて頬杖を付いている「考える人」は最も良く知られている。詩作に耽るダンテとも、人間全体の苦悶する姿を表したとも言われているそうだ。眼窩深く口を固くむすび近寄りがたい迫力のある像に、作者は「考へ込むな」と呼びかけるこの明るさが良い。大気の澄み切った大空のもとでは、人間の悩みはいかばかりのものでもないという励ましの気持ちが伝わる。
 同時作に「彫刻の動く筋肉緑さす」がある。彫刻が「考える人」であれば、考えることに集中すると、腕や胸や腿の筋肉がこんなにも漲るのかと思われてくる。また「地獄の門」では、大勢の人が地獄に落ちまいとぎりぎりの力で縋り付いている。これらの究極の姿の彫像に日が当たると、まるで筋肉が躍動しているように見えたのだろう。

煙茸踏まずにゆけと後ろより藤勢津子〔運河〕
[俳句四季 2025年11月号より]
 煙茸は小さい袋状なので目につきやすい。仲間と山林を歩いている時に、先頭が煙茸に気付き思わず「煙茸よ」と言った。するとすかさず後方から「踏まずにゆけ!」と声がかかった。この瞬時のやりとりが目に見えるようだ。煙茸を見つけると、匂いを嗅いだり小突いたりする。ついには蹴って煙も吐かせてみたく、誰もが童心にかえる。もっとも破れた袋から飛び出た胞子を沢山吸い込むと気管支炎を起こすそうで、要注意かもしれない。ともあれ晴天の充実した楽しい仲間との1日である。

入日揺れ八千草揺れて簗仕舞橋本榮治〔枻・馬醉木〕
[俳壇 2025年11月号より]
 晩秋、産卵のために川を下る鮎も産卵を終えて衰弱した鮎の姿もなくなると漁が終わる。掲句は杭や竹簀が散らばったままの侘しい崩れ簗ではなく、漁師達が力を合わせてそれらを片づけているのだ。かたわらに番屋のある大きな簗か、鮎の塩焼き等を供する食堂を備えた観光簗だろう。川はまた静かな清流となり、可憐な八千草が入日に揺れて華やぎを添えている。「揺れ」のリフレインに、無事に漁期を終えた漁師達のほっとした心持ちが感じられる。

上座より詰めよ詰めよと十夜講中山幸枝〔花鶏〕
[俳句界 2025年11月号より]
 十夜法要には、老若男女を問わず信心深い人が集まる。御本尊に近い上座から埋まっていき「詰めよ詰めよ」と詰めていくので、十夜鉦が鳴り響くころは満杯だ。法要の後は、皆が一つの輪になり念仏を唱えながら大きな数珠を1玉ずつ回す。お互いの顔が見えるだけに親近感が生まれる。十夜講の賑やかさが生き生きと描けている。

狩の犬可愛がらるることのなく山本一歩〔谺〕
[俳壇 2025年11月号より]
 犬は昔から狩猟を専業としたマタギと呼ばれる狩人の生活でも欠かせない存在だった。猟犬に限らず警察犬や盲導犬など、将来を見据えて訓練され育てられる動物は色々いる。牛にしても、乳牛は広い牧草地で自由に育てられると乳の出が良くなるという。一方、スペインの闘牛は、何頭もの子牛に人が順に手を差し出して、なついてくるのは闘争心に欠けると見なされ第一選抜で落とされるそうだ。
 掲句、あくまでペットとして可愛がられるのではないものの、主従は同志のような信頼関係がある。句の切り口が異色で、狩の犬の本質が言いとめられていると思う。