「耕人集」 八月号 感想   沖山吉和

夜泣子の生もひたむき明易し小島利子

竹下しづの女に〈短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎〉という有名な句がある。母親にとって毎晩のように続く夜泣きは、精神的にも肉体的にも辛いものである。しかし、赤ちゃんは泣くことが仕事。泣きながら成長していくのである。
お孫さんなのであろう。一歩距離を置いて見ているので中七の「生もひたむき」という余裕ある表現も生まれる。また、この表現の裏には家族の期待までもが窺える。観念ではなく、具象を通して叙情を表現しているのがよい。

ひたすらに峡の田守りて昭和の日林美沙子

ご先祖が苦労して切り開いた田なのであろう。これまで幾度ももう稲作をやめようと思ったのかもしれない。しかし、その都度先祖の苦労を思い返しては、懸命に耕作を続けてきた。象徴的な季語の「昭和の日」にその思いが滲み出ている。
今日、高齢化や後継者がいなかったりで、休耕田や荒れ田が増えている。日本の農業が大きな転換期を迎えていることを示唆している句でもある。

逃水や武者行列を先導す坂本幸子

地域のお祭りでの光景なのであろう。擬人法を用いたユニークな表現である「先導す」が印象的である。
逃水は蜃気楼の一種。遠くに水たまりがあるように見えるが、近づくとそれが逃げてしまう。上五の「や」は間投助詞的に用いられていて、意味を強めたり、あとの体言につなげたりする役割を果たしている。質感のある句である。

玉砂利に箒目の跡夏めけり祢津啓

取り合わせの句である。ともすると一句の中に多くのことを盛り込みがちになるが、掲句は、材料を絞り込むことの大切さを教えてくれている。
夏の朝の境内の光景であろう。細かい玉砂利にきれいに箒の目がついている。昨日までとは違うその微妙な影や光線の変化に作者は季節の移ろいを敏感に感じ取っている。抑制の
効いた繊細な感覚の句である。

無人駅火蛾のぶつかる時刻表宮沼あつ子

ローカル線の夜の駅での光景。周囲に林があるのであろう。沢山の火蛾が集まってきては、駅舎の灯りの回りを飛び回る。そのうちの何匹かは、壁や貼ってある時刻表にぶつかっては音を立てる。作者はその光景をぼんやり眺めている。
地方の小さな駅で、何をするでもなくただ列車を待っている作者の空虚感が滲み出ている。確かな写生の句である。

診察を終へし安堵の新茶汲む 村井洋子

お医者さんなのであろう。この日は午前中だけの診察で、その午前中の診察が終わった時点での句と勝手に解釈してみた。老若男女、次々といろいろな患者さんが見え、その病気や症状も一人一人違う。その一人一人に寄り添いながらの診察は神経を使う。
楽しみにしていた新茶。その香り、色合い、味などを全感覚で楽しんでいる作者。そのくつろぎの様子や心持ちまでもがよく伝わってくる句である。

打水に日を匂はせて人を待つ堀田知永

大切な方、あるいは久しぶりにお会いする方をお待ちしているのであろう。照りつける暑さが続いた夕方、打水をするとたちまちその水分が地面に溜まった熱で匂いを放ちながら蒸発してゆく。それを「日を匂はせて」と印象的に表現している。
心を込めて人を待つ、その細かい気配りが伝わってくる。日本の伝統的な生活習慣がいまだに残っている地域やお宅であることを窺わせる句である。

遍路墓守りて杣人皆老いぬ船田としこ

今でも札所道にはお遍路の途中に亡くなった方の墓が残っている。それらの墓を守っているのは、他でもない地元の人たちである。しかし、今、過疎化、高齢化などで、その墓を守るのも難しくなってきている状況がある。社会の変化を作者は目の当たりにし、寂しさを感じている。
季語は、「遍路」とすると春であるが、掲句では「遍路墓」で一語なのでこれには無理がある。「墓守る」だとして考えれば秋になる。さらには、無季の「墓」が季語であるという見方があってもおかしくはない。筆者は「墓守る」で秋の句として鑑賞した。

草むしり時に後ろを振り返り百瀬千春

庭であろうか畑であろうか、とにかくある程度の広さの場所での除草作業であろう。「後ろを振り返り」の語からはたった一人での作業であることも想像できる。
夏季の雑草は生命力にあふれている。抜いてきれいにしても短期間のうちにまたすぐに繁茂してくる。そのような虚しさを感じながらの作業。少しでも作業が進んだことの確証が欲しくなる。
「後ろを振り返り」には、そのような作者の複雑な心理が表れている。

棟梁の木端ひきよせ三尺寝佐藤和子

今年の夏もまた格別の暑さであった。昼寝でもしないと現場で働く人は体がもたない。三尺寝の由来は、小さく丸まって寝るからとも、お日様が三尺動くくらいの短い時間だからともいわれる。いずれにしても作業現場の昼休みの光景なのであろう。
何人かの大工さんを纏めている相応の年の信頼の厚い棟梁なのであろう。その棟梁が木端をひきよせ、その上で三尺寝をしているというところに俳諧味を感じた。

朝掘りのたかんなに付く土湿り本間ひとみ

「朝掘りですよ」と言って、人からいただいた筍であろうか。土とともに土中の水分がまだ十分含まれていて、手にするとずしりと重い。
取り立ての筍は、えぐみも少なくおいしい。作者の脳裏には、筍ご飯にしようか、煮物にでもしようかと、今晩の料理とともに家族の喜ぶ顔が浮かぶ。日本人ならではのささやかな幸せの一瞬である。

桜散る一片づつに日をまとひ 齋藤キミ子

日本人は桜をこよなく愛し、その蕾、枝の揺らぎ、花びらまでも細やかに観察しては、散りゆく姿を惜しむ。「一片づつに日をまとひ」の表現には、まさにそんな日本人の桜への愛情が細やかに表現されている。
技法としては倒置法が用いられていて、上五で切れる。リズムも美しい。巡る季節を捉えた繊細な句である