「耕人集」 九月号 感想 沖山吉和
やはらかくなりし父の手半夏生 髙橋喜子
「半夏生」は、植物ではなく、時候としての半夏生のこと。この頃は、梅雨も末期を迎え、田植えも終わりとなる。
「やはらかくなりし父の手」は、作者の哀感であろう。若い頃の父は働き者として評判の人だった。高齢となり、農作業をすることもなくなった父。ごつごつして荒れていた手も今ではすっかりきれいになった。その手を見ながら若かりし頃の父を懐かしんでいる作者。抽象的な季語との即かず離れずの取合せが絶妙である。
老鶯の声の加はる祝婚歌小山田淑子
郊外の教会のようなところでの作と想像する。近くに林でもあるのであろう。高らかに祝婚歌を詠っている最中に、それにあたかも唱和するかのように老鶯が大きな声で鳴きだしたというのである。
掲句はまさに挨拶句である。観念ではなく、具象を通じて抒情を表見しているのが素晴らしい。取合わせといい、語調といい、また内容といい、祝いの句としてよくまとまっている。
竹落葉弓射るまでのしじまかな松原悦子
周囲の人の視線は弓をいっぱいに引いた射手に注がれている。時があたかも静止しているかのような音のない世界。そのような中、竹落葉が視界の中を細かく回転しながら静かに散ってゆく。弓を射る一瞬の張り詰めた空気を詠った句である。
弓を射ようとしているのは作者かもしれないし、あるいは他者なのかもしれない。いずれにせよ射手と周囲の人とが一体となった緊張感が見事に伝わってくる。
薪風呂の湯の柔らかし蚯蚓鳴く徳本道子
「蚯蚓鳴く」は秋の季語。多くの虫が鳴きだす前の残暑のほとぼりの冷めない夜闇。その底からジージーという鳴き声が聞こえてくることがある。古くから蚯蚓の鳴き声といわれているが、実際は螻蛄の鳴き声とのこと。
「薪で沸かしたお湯は柔らかい」という話を聞く。熱源によってお湯の感触が変わるかどうかは定かではないが、心情的なものもあって薪風呂にこだわる人もいると思われる。掲句の作者もその一人なのかもしれない。心地よい肌の感触と静かに伝わってくる鳴き声の聴覚の世界。身も心も癒される一瞬である。
幽玄の闇に水音ほたる湧く菅原源志
作者のお住まいの鶴岡市の近郊での作であろうか。うっそうと繁った樹木の間を、静かな音を立てながら流れるせせらぎが想像される。そのせせらぎの音に促されるかのように次々と闇に蛍が浮き出てきては、樹間へと吸われてゆく。
「湧く」からその数のおびただしい様子が想像できる。聴覚と視覚の織りなす幻想的な世界が十七音の中に的確に表現されている。「ほたる」というひらがな表記も幻想的な雰囲気を醸し出すうえで効いている。
郭公の鳴くたび山の風動く河村綾子
「山の風動く」というスケールの大きな心象表現が掲句の妙味である。「鳴くたび」から、峠に佇んでじっと耳を澄ませている作者の姿が髣髴と浮かんでくる。
郭公の鳴き声は、人里離れた自然の豊かな場所でないとなかなか聞かれない。当然作者の神経は郭公の鳴き声に向く。その郭公の鳴き声に呼応するかのように一山に風が立ち、草木がそよぐ。まるで郭公の鳴き声に呼応して、自然が動いているかのような錯覚に陥って、いよいよ作者の感動は高まる。
指貫の指の湿り気梅雨に入る野口栄子
指を通した指貫のわずかな湿り気の違いから、梅雨入りしたことを直感的に感じ取っている。女性らしい繊細な感覚の句である。リズムも主題の焦点化も見事である。
雄大な景色を象徴的に表現する俳句の手法もあるが、掲句のように身の回りのわずかな変化を捉え、それに焦点化し、具象化する手法もある。ついつい多くのことを一句の中に詠い込もうとしがちになるが、十七音という限られた音数においては、この手法は有効である。
月山へ身を伸ばし捥ぐさくらんぼ笹原紀男
山形県は全国でもとりわけさくらんぼの栽培が盛んである。観光農園での作であろうか。東根市には、先師皆川盤水先生のさくらんぼ句碑も建立されている。
「月山へ身を伸ばし」が掲句の眼目である。地域の人々にとっては、月山はいわば聖なる山。人々の日々の暮らしや意識の中には常にこの月山が存在する。そのような意味では、掲句は地域の人々の意識を象徴するような句といっても過言ではなかろう。
蛇泳ぎゆきたる沼の鎮もれり芦沢修二
自然が豊かに残っている地域に暮らしている人にとっては、
泳ぐ蛇の姿を目の当たりにすることは珍しくはないであろう。東京の郊外に住む筆者も近くの公園などで何度も目撃している。実に蛇は泳ぎが巧みで、流れるように泳ぐ。
作者は蛇が沼を泳ぐ光景を見て一瞬緊張する。やがて蛇が沼を渡り終わってからふと我に返る。何事もなかったかのように沼は静まり返っている。その沼のあまりの静けさに不気味さすら感じている。ふと我に返ったときのその一瞬の内面がよく表現されている。
風薫る御朱印帳の終の印池尾節子
巡礼の御朱印なのか、各地のお寺巡りの御朱印なのかわからないが、多くの寺社を巡ったのであろう。そして、風薫るよい季節に迎えた最後のページ、作者の心は満足感でいっぱいである。
掲句は、初句でいったん切れる取合せの句であり、倒置法が用いられている。取合せの確かさもさることながら、一句のリズムがよい。作者の満たされた心の余韻が静かに伝わってくる。
忘れ傘まだ夕立の雫あり古屋美智子
いっとき激しく降った夕立もすっかり上がって、今は青空が広がっている。ふと気づくと傘立に誰が忘れていったのか傘が一本だけ残されている。その先からは、先ほどの夕立の雫がまだ垂れ続けている。やれやれこの傘でずぶぬれにならずに済んだのであろうに。誰なのであろう、と作者はあたりを見回す。
掲句においては、中七の「まだ」の果たす効果が大きい。忘れ傘は日常よく見かける光景であるが、この二文字が一句に新鮮味を与えるとともに説得力を持たせている。
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