「耕人集」2月号 感想  沖山志朴

親不知子不知暗し横しぐれ 岡島清美

 「子を呼ぶ母の叫びが聞こえぬか 母を呼ぶ子のすすり泣きが聞こえぬか 旅に病む父親のもとへ…」合唱曲『親知らず子知らず』のなんとも切ない一節を思い起こす。
 下五の「横しぐれ」の措辞が印象的である。眼前の景を詠っていながら、忘れえぬ地名が、この海岸にまつわるたくさんの秘話を読者に想起させる。地名を生かしての省略が見事である。    

黒煙のやうに塒へ椋鳥の群れ 平照子

 椋鳥は、かなり繁殖力の強い鳥である。巣は、木の洞、軒の隙間、戸袋、巣箱など様々な場所を巧みに利用し、多くの雛を育てる。秋の夕暮れ、おびただしい数の群れが騒がしく塒へと移動する。中には、街路樹を塒とする群れもいて、糞の害や騒音で住民から苦情が出たりもする。必ずしも歓迎される鳥ではないようである。
 掲句、「黒煙」の比喩が椋鳥の群れ飛ぶ様をよく捉えている。特に、夕焼けが美しい日であったのであろうか。群れは伸縮自在、固まって飛んでいた群れが、また空いっぱいに広がった一瞬なのであろう。

啄木鳥の軒穴ふさぐ冬囲池田春斗

 作者は、雪深い地方にお住まいの方。雪囲いの作業の一工程として、春に啄木鳥が開けた軒端の巣穴も塞いでいるというのが面白い。
 これが、ハクビシンなどの他の獣のいたずらだとすると腹に据えかねるが、啄木鳥だと憎めないものがある。何羽かの雛鳥たちが初夏に巣立っていったことを思い出しつつ、作業にいそしんだのであろうか。

ビル街に托鉢の鈴初時雨雨森廣光

 中七の「托鉢の鈴」の省略が巧みである。似たような托鉢僧の句は他にもあるであろうが、聴覚の鈴を象徴的に配したところが見事である。
 都会の雑踏。折からの初時雨に行き交う人々の足音もよりせわしくなる。そんな中、まるで別世界から届いたかのような托鉢僧の鳴らす澄んだ鈴の音。一瞬、作者はその音に射すくめられたように立ち止まる。 

初電話母似の姉と高笑ひ小田切祥子

 実の姉との初電話の折の光景であろう。あまりにも、姉の声がかつての母親の声とよく似ているので、「母さんみたい」とでも言ってしまい、ともに笑い出してしまったのであろうか。「高笑ひ」の裏には、ともに年を取ったわね、など様々な思いや感慨が複雑に交錯している。

返り花逢ひたき人の顔浮かぶ平向邦江

 冬枯れの道端に咲いている帰り花。その鮮やかな色を目にした途端、かねてから心のうちにもう一度会ってみたいと思っていた人の顔が浮かんだという。
 取合せの句。感心するのは、即かず離れずのその距離の絶妙なとり方である。「返り花」と「逢ひたき人の顔」、この距離の取り方が、掲句を品のある句にまとめあげた。

水底に色あらたむる散紅葉澤井京

 中七の「色あらたむる」の発見が見事。表現としては、「今、ここ」でありながら、掲句には、意識としての時間的な経過が暗示されている。
 数日前までは、梢の紅葉の色合いを作者は堪能していたのであろう。それも今ではすっかり散りつくしてしまった。しかし、よく見ると、清流の底に沈んでいる紅葉のまた違った色合いの見事なことよ、感心する。絶えず生活の中の一齣として自然に密着している作者のなしえた手柄といえよう。

どこやらに逝きし子の声冬の星伊藤克子

 若くしてか、あるいは幼いころなのかお子さんを亡くされたのであろう。冬空の星を眺めていると、たくさんの星のどの星からかはわからないが、在りし日の子の声が聞こえてくるようで辛くなるという。
 もちろん実際に聞こえてくるわけではない。心のうちに常に思い続ける一念が呼び起こす心の中の声である。逆縁の悲しみが滲み出た。

梟の次の鳴き声闇に待つ斉藤房子

 「五郎助奉公」「ボロ着て奉公」などと聞きなされ、古来、日本人に親しまれてきた梟。今日では、森林の伐採等により繁殖に適した洞穴が少なくなり、個体数も減少しているという。
 梟が冬の季語になっているのは、鳴くのが主に冬から春先にかけてのことであるからであろう。山深い旅宿でのことであろうか。続けて何回か鳴いては、しばしの沈黙。何人かで、神経をとがらせてじっと闇を見つめて次の声を待つ。緊張のひと時である。