「耕人集」   10月号 感想         沖山志朴

団扇風寝返りを打つ稚に向け山本由芙子

 幼いものへの愛情の溢れる句である。昼寝をしている幼子の傍らで団扇を使っているのは作者。その団扇を、今度は、ちょうど寝返りを打った幼子の汗をかいている部分へ向けて煽ぐという一齣。
 省略も効いている句である。連用形で止め、句全体に余韻が残る工夫も功を奏している。穏やかな調べもよい。 

水桶にきうりのをどる登山口佐藤和子

 いかにも爽涼感あふれる光景が、動きのある映像として伝わってきて、気持ちのよい句である。
 水桶に引いているのは、もちろん清冽な山水である。その山水の勢いでせわしなく動き回る桶の胡瓜を擬人化して表現している中七が効果的。賑わう登山口の、これから山に登るぞ、というわくわくするような独特な雰囲気までもが見事に伝わってくる。

青梅雨の芭蕉の像を洗ひけり成澤礼子

 奥の細道の旅でも、尾花沢、羽黒山、月山、象潟、酒田、鶴岡など芭蕉は出羽の国に特別な思いを持って旅をしていたことが分かる。とりわけ山形領には格別な思い入れがあったようで、取り上げた箇所も多い。今日、山形の人たちは立石寺だけではなく、何か所かの観光地に芭蕉の像を建て、俳聖を敬い、像を大切に手入れしている。
 場所は分からぬが芭蕉が訪れた時季を意識しての句でもあろう。梅雨というと鬱陶しい雰囲気があるが、青梅雨という季語には、同じ梅雨でもどことない明るさが漂う。濡れて緑の映えた芭蕉像を、畏敬の念を持ちつつ洗いあげた人たちの姿が浮かんでくる。

飴細工めきて透きたる蟬の殻青木民子

 油蟬の脱け殻であろうか。鮮明な印象の残る句である。薄茶色の飴細工に、蟬の艶やかな脱け殻をなぞらえて表現したところに作者のオリジナリティーが感じられる。
 いろいろに表現し尽くされている蟬の脱け殻ではあるが、少し視点を変えてみるだけでまだまだ新しい発見があることを教えてくれる。 

雷鳥の親子へ雲のぶつかり来井川勉

 かなり標高のある山での嘱目吟であろう。印象を直截的に表現した下五の大胆とも思えるような表現が印象的である。
 近年の登山ブームで登山者の数が多くなったこと、温暖化で、鹿や猿が標高の高いところにまで棲息するようになったこと等が影響して、雷鳥の数が急激に減ってきている。そんな雷鳥は神経質になっていて、晴天よりも荒れ模様の、人の少ない日の方が姿を見せる確率が高いようである。この日も雲の流れの早い荒れ模様の天気であったのかもしれない。疲れた心身を癒してくれる束の間の安らぎの一齣である。  

アマビエの絵の風鈴の鳴りにけり本多孝次

 新型コロナの流行により、はやりの病を治してくれるというアマビエが世に知られるようになった。
 絵は風鈴の本体ではなく、舌の部分に描かれていたものであろう。珍しい風鈴だと思いつつ眺めていると、折からの風で急に鳴りだしたために、内心驚いたのかもしれない。「鳴りにけり」の表現には作者のはやりの病の収束への願いも込められているのであろう。

蟬生れみるみる白き翅を張る鈴木さつき

 たまたま見かけた蟬の脱皮の瞬間の光景である。蟬は天敵に襲われないように、まだ夜の暗いうちに穴から出て脱皮を始める。脱皮そのものは10分程度で終わるが、白い翅が伸びて色が変わるまでのしばらくの間は動かない。 脱皮の瞬間の珍しい光景に出くわした作者。その感動が「みるみる白き翅を張る」に表現されている。

井守棲む天女浴びたる井戸の跡屋良幸助

 羽衣伝説は、日本だけではなく世界各地に存在するようである。日本での最古の羽衣伝説は、『近江国風土記』の滋賀県の余呉湖を舞台としたものだという。ここから、日本の各地に伝わったようである。
 井守と天女との取合せが面白い。およそ天女のイメージとはかけ離れた井守、それがかつて美しい天女が水浴びした井戸に棲み着いているという意外性が掲句の眼目。対照的な二物の取合せが効果を発揮している。

縁側にバリカン使ふ梅雨の明け舘千佳子

 理髪店で感染する恐れもなくはない、と自宅で子供の散髪をするなど、新型コロナの影響でバリカンが復活した家も少なくないのではなかろうか。掲句もそのような家庭と想像しつつ鑑賞した。
 かつては自宅の縁側で、バリカンの切れ味を気にしながら、父親が子供たちを散髪する光景があちこちで見られた。掲句も、「今日は梅雨も明けて天気もいい、さあ散髪を始めるぞ」と嫌がる子供を座らせて散髪を始めた場面であろうか。長閑で明るい一昔前の日本の姿を思い描かせる、懐かしさを覚える句である。