「耕人集」 1月号 感想  沖山志朴

身に入むや隠れ信者の深き洞青木晴子

 奥行きが50メートルもあるという五島列島の新上五島町のキリシタン洞窟での作であろうか。この洞窟には、明治初期、厳しい弾圧を逃れて12人が、約4か月に亘って密かに暮らしていたという。ある日、朝食を炊く煙から役人の知るところとなり、捕えられ、拷問にかけられた。
 洞窟内に入り、当時の隠れ信者たちの不自由な生活ぶりや、処刑されるのではないかという不安な心の内をいろいろに想像してみたのであろう。そして、今日の社会では考えられないような不条理に心が痛んだのであろう。季語の選択も見事である。 

廻り地蔵背負ひて送る刈田道佐藤照子

 全国的にみても珍しい廻り地蔵。山形県鶴岡市朝日地区の廻り地蔵は、400年間も続いているとのこと。500軒ほどの家を1週間ずつ滞在。その間、毎日、朝と晩の2回、お膳をさしあげてもてなすそうだ。そして、次の家へと運ぶ。
 感謝の気持ちを込めながら、赤子を背負うようにして、刈り入れの終わった田の畦道を歩む光景なのであろう。一部の地域だけに残る貴重な宗教的な儀式を、淡々と写生しているのが心を打つ。

天平の琵琶の音に酔ふ文化の日関口昌秀

 昨年、天皇の即位記念特別展として「正倉院の世界」が上野など何か所かで開かれた。その折の作であろう。筆者も特別展を観る機会を得たが、展示物の中に螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)があり、複製した琵琶を使っての演奏も流されたりして、多くの人の関心を集めた。
 千数百年前にすでにこのような素晴らしい文化が日本に伝わり、それを堪能していた人々がいたことに作者は改めて感じ入っている。螺鈿の美しさもさることながら、復元された音色の味わいに焦点化したところがよい。季語も一句の中で見事に響き合っている。 

白砂に牛車軋めり島の秋屋良幸助

 一読して竹富島の明るい光景が浮かんできた。珊瑚が砕けてできた砂浜は、砂の粒子が粗いために人が歩いたり、牛車が通ったりすると音を立てる。それを作者は「軋めり」と表現した。今日では、牛車もタイヤを使っているのであろうが、それでも軋む音が印象的だったのであろう。
 眩しいばかりの白い砂、秋の静かな波の音、そこに響く牛車の音。視覚と聴覚の織り成すのどかな自然の中での解放感が、日々の忙しい生活の中で溜まった心身の疲れを癒やしてくれたのであろう。 

家仕舞庭を離れぬ秋の蝶西尾京子

 「墓じまい」と同じように、家を継ぐ人がいない場合、家を売却したり、取り壊したりする。それが「家じまい」である。この言葉が、最近使われるようになった。掲句においては、家を取り壊して更地にして売却するのであろうか。秋の日差しの中に蝶が一匹離れがたく漂っているという印象的な光景。
 寂しさの漂う句である。作者自身が家じまいをしているのかどうかは定かではないが、一抹の寂しさを感じていることは確かである。それが、実景としての「秋の蝶」に象徴されているが、それは、代々住んできた人々の魂の現れとも考えられなくもない。

鶺鴒の頻りと覗く道路鏡江藤孜

 一羽の鶺鴒が、ホバリングのように羽ばたきながら中空に止まっては、道路脇にある鏡を覗いている珍しい光景を捉えた句。
 鳥たちは、空や林を自由気ままに行動しているようにみえるが、実は多くの鳥たちにテリトリーがあり、その中で餌を採ったり囀ったりしている。鶺鴒にもそれぞれ縄張りがあり、この鶺鴒も自らの姿を他からの侵入者と勘違いし、攻撃の態勢に入ったのであろう。時には、鏡を激しくつつくこともある。

ていねいに梨むいてゐる聞き上手佐々木美樹子

 「梨の皮は金持ちに剝かせ、林檎は貧乏人に剝かせよ」と子供のころに祖母が言っていたのを記憶している。昔の梨は、皮の厚い長十郎が主だったので、厚めに剝いたのであろう。一方、林檎は皮ごと食べられるくらい皮が柔らかく栄養もあるので、薄く剝くのがよいとされたのであろう。
 品種改良が進んだ今日、多くの梨の皮は薄く食べやすくなったが、やはり皮が残ると抵抗がある。掲句に描かれた「聞き上手」の人も、食べる人のことを考えながら心を込めて丁寧に剝いている。同時に、耳も話し相手に向けながらしっかりと心に受け止める。「ていねいに」は、梨と同時に「聞き上手」にもかかる。優しく思いやりのある人柄が髣髴される句である。