「耕人集」 8月号 感想                          高井美智子 

往診の老先生のパナマ帽金井延子

 昔からお世話になっている往診の先生も「老先生」となり、粋なパナマ帽で来られた。季語のパナマ帽が句全体を明るくしている。優しい先生に信頼を寄せられているようだ。

花筏ゆつたり鯉に崩されて長谷川貴美恵

 この花筏は池に組まれているようである。冬の間は池の底で動きのなかった鯉たちも、やっとゆったりと動き出したようである。その動きをよく観察しており、中七から下五にかけて流れるような調べで詠われている。花筏を崩す鯉の喜びまで伝わってくる一句である。                                   

山裾に緑走れり新茶摘伊丹文男

 丹精に育てた新茶の畝筋が、日当たりの良い山裾の起伏に沿って広がっている。この情景を「緑走れり」と独自の感性で捉えている。
 星野立子の代表句〈美しき緑走れり夏料理〉を思い出した。表現として類想だとご指摘を受けることを承知した上での作句であると思える。    

仏前に愚痴をこぼして豆の飯山本由芙子

 「仏前に愚痴をこぼして」の措辞から、生前のご主人は、いろんなお話を頷きながら聞いておられたことと思われる。亡くなられてからは、仏前に向かって話している作者である。愚痴を聞いてくれる人がいれば、心が整理でき、次への人との関わりが円滑になる。亡くなっても大らかで頼れるご主人である。 

濃あぢさゐ日々遠のきぬ子の心池田京子

 高齢になると誰しも少なからず感じる親子の距離感を、実に巧みに正直に詠いあげている。この距離感を自分なりに冷静に処理をしている作者である。子が定年を迎える頃になると、子も自分自身の老いの人生と向き合うことになる。従って親子が向き合っている方向が、少しずつずれてくる。この隔たりは何らかの分岐点ごとに感じることになる。
 紫陽花の色が変化を繰り返したあと、瑞々しい濃紫陽花となった。「濃あぢさゐ」の季語を用いたことにより、一層この句を味わい深いものにした。

また来てと妹が手を振る春の宵鈴木ルリ子

 年を重ねても妹は姉を頼っている。「また来てと妹が手を振る」の表現がその全てを語っているようだ。映画の一シーンのように美しい春の宵であるようだ。優しい空気に溢れているものの淋しさの残る句である。 

若き日の母に起こされ昼寝覚完戸澄子

 昼寝などは様々な物音で熟睡ができず、うとうと短い夢をみる。夢の中のおかあさんの前では、子どものままであったようだ。お母さんは、さぞかしお若くお元気だったことでしょう。 

葦の先揺らし胸張る行々子百瀬千春

 行々子が葦の先に止まっているのをよく見かける。周囲を見渡し、けたたましく鳴くが、掲句は鳴く前に大きく息を吸い込んでいる光景かもしれない。又は縄張りを主張する威嚇の表現かも知れない。じっくりと観察することによって得ることのできた即物具象の句である。

葉桜のざわめく影の濃くなりぬ横山澄子

 葉桜になると急にもっさりとした桜の木になる。風が吹いてきたり、鳥の群れが止まったりすると「ざわめく影」となる。作者の鋭い五感を働かせた見事な一句である。

阿檀の実投げて取り合ふ海の子ら玉城玉常

 沖縄の季語として採用されている阿檀の実は 夏頃に円い実となり、若い時は緑色で次第に黄色くなり、パイナップルのような甘い芳香を発するという。果実は地面に落下しても、食べて美味しいわけでもないので、海辺の子ども達にとっては、投げ合って遊ぶ遊具となる。なんとおおらかな浜の遊びであろうか。

鞍馬への径なき径や藤の花山下善久

 鞍馬山の木の根径は、牛若丸が鞍馬の天狗を相手に修行したと伝わっており、まさに径なき径である。そのような薄暗い山路の空から藤の花びらが、作者の足もとに零れたようである。高い木々に藤の花が覆い被さっていた。

ネモフィラの丘青空へつながれり石本英彦

 茨城県の国営ひたち海浜公園のネモフィラの満開の頃の風景と思われる。丘一面にネモフィラが広がっている絶景であり、丘の下から見あげるとネモフィラの上は青空だけが広がっているように見える。淡い水色のネモフィラの群生を見る情景を、伸びやかな「青空へつながれり」の表現で言い当てている。
 この雄大なネモフィラの丘に立ち尽くしている作者の感動が伝わってくる秀句である。