「耕人集」 7月号 感想                          高井美智子 

生家たたむ懐古こもごも柿若葉菊地留美子

 生家をたたむという無念の決断に至るまでのいきさつは、並大抵のものではない。もう誰も住まない生家には、今年も柿の若葉が艶やかである。幼き頃に兄弟と柿を捥ぎ、遊んだ思い出がこもごも蘇る。生家を取り壊すという寂しさが溢れている。

使はれぬ母校の土俵辛夷咲く結城光吉

 使はれぬ母校の土俵とは、母校の相撲部が閉じられてしまったのかもしれない。子どもの減少率は凄まじく、又子ども達の興味も多様化し、相撲愛好家は減少している。それに伴い、各校で団体戦出場の人数が揃わず、団体戦を辞退している傾向にある。盛況だった頃の土俵をしみじみと懐かしんでいる。                                   

夏きざす青磁の小皿買ひ足して小林隆子

 今年も極暑の夏となりそうである。暑さを凌ぐ為、食卓を涼やかに飾りたいと思いたった作者である。透き通るような青みのある青磁を食卓に並べてみよう。青磁の小皿を買い足しておこう。
 日常の素材から、爽やかな空気が流れ出るような詩情を高めた一句である。    

浅蜊汁澄ましか味噌か妻が聞き五味渕淳一

 静かな夕べのひとときである。奥さんがあさり汁の味付けの段階で「澄ましか味噌か」と聞いてきた。この優しい声掛けで、夕餉の平和な時間が広がってくるようだ。
 「ところで答えはどちらだったのですか」と聞きたくなるような俳諧味のある微笑ましい句である。 

走り根に桜蘂降る極楽寺石川敏子

 極楽寺は、神奈川県鎌倉市の極楽寺坂切通しの近くにある。境内の桜は、北条時宗のお手植えと伝えられている「八重一重咲分桜」があり、「御車返し」と言われている。その名にふさわしく嫋やかな枝が広がり、走り根は八方へと盛り上がっている。「桜蘂降る」の季語を用いたことにより、歴史の流れが思い起こされる感慨深い句となった。

新しき鎌の匂や捩れ花小田切祥子

 捩れ花は雑草に混じって優しい桃色の小さな花を咲かせている。夏に向かい草刈りの為に新しい鎌を買った。新しい鎌の匂いを感じ取ったこの細やかな感性に驚かされた。捩れ花を残しつつ草刈りを進めていく。刈り残した捩れ花は、さらに空へと登り咲いていることだろう。 

待ち侘ぶるハチ公像や迎へ梅雨大塚紀美雄

 ハチ公像は東京の渋谷駅にある。大正末期から昭和初期にかけて、渋谷駅まで飼い主の帰りを出迎えに行き、飼い主の死去後も約10年にわたって通い続けていたという逸話で知られ、忠犬ハチ公として親しまれている。100年を経た今も尚、迎へ梅雨の中を待ち侘びているように思えたハチ公の像に深く感動した作者である。
 ハチ公像は待ち合わせ場所として、利用している人も多い。今度渋谷に行った時は、ハチ公像の頭を撫でて労いの言葉をかけてみようと思う。 

振り向けば妣のゐさうな玉すだれ春木征子

 玉すだれは、明治初期ごろに導入された外来植物である。南米原産であるが日本の環境や風土にも合い、庭先などでよく見かける。長く咲くのでとても生活に密着した花である。
 作者の生家でも庭先に植えられており、そこには家事にいそしむお母さんの姿がいつもあった。この庭に佇むと、亡くなられたお母さんの気配を感じとった作者である。真っ白な小さな玉すだれの花の季語が絶妙である。

大輪の牡丹の花の軽さかな伊藤一花

 牡丹の花は、近寄りがたいほど高貴に思えるが、自宅の庭の牡丹なら触れてみたくなる。重たそうな大輪に触れてみると意外に軽く驚いた作者である。短い牡丹の花時を存分に楽しんでいる作者である。

大宇陀の家並眼下に蕨摘む日浦景子

 大宇陀は宇陀川流域の小盆地に市街地が形成されおり、丘陵地に囲まれた家並が広がる。この丘陵地の一角の「かぎろひの丘万葉公園」には、柿本人麻呂の歌碑「東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」がある。
 このような丘陵地で蕨を摘むという、まるで万葉人を思い起こさせるような景の嘱目吟である。

黄砂降る鑑真の寺曇らせて石井淑子

 鑑真は唐の生まれの奈良時代の帰化僧で、戒律を伝えた僧侶である。数々の難題による5回の渡航の失敗を乗り越え、754年に日本にやってきて以来、亡くなるまで日本で過ごした。中七の「鑑真の寺」とは鑑真が修行の道場として開いた唐招提寺でしょう。
 「黄砂降る」の季語から、鑑真の故郷の唐を連想させられ、「寺曇らせて」の措辞により鑑真の不屈の精神が伝わってくる格調の高い一句である。