古典に学ぶ (96) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─ 『源氏物語』の密通と「病」・朧月夜と「病」①─    
                            実川恵子 

 『源氏物語』の重要なテーマの一つに不義密通があるが、前回迄の藤壺や朧月夜、そして女三の宮といった、重要な女君たちの密通には必ず病が不可欠な要素としてかかわっている。
 特に、「わらは(瘧)病み」という具体的な病名が記される用例は、前回迄の源氏と朧月夜のみであることに注目したい。また、この病が物語にどのような機能をもたらすのかを考えたい。
 まず、朧月夜について簡単にふれたい。彼女は、『源氏物語』に登場する多くの女性たちの中でも特に印象的なヒロインであろう。そして何よりも〝春〟のイメージそのもので、奔放で妖艶な女性として登場している。
 源氏の君の政敵の、右大臣の六女で、源氏をもっとも憎みつづけている弘徽殿の妹で、ゆくゆくは右大臣側が擁している東宮の妃に予定されている。源氏は、この時20歳。初めて会ったのは桜の宴の夜であった。源氏が宴の後、朧月の庭を一人さまよい、焦がれていた藤壺の許へ忍びこめないものかと思っていたが、まるで隙がない。ただ弘徽殿の細殿の戸が一つ開いている。そっと入ってみた。

 いと若うをかしげなる声の、なべての人とは聞こえぬ。「朧月夜に似るものぞなき」と、うち誦(ず)じて、こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。「八帖・花宴(はなのえん)」 (大変若く美しい感じの声で、しかも並の女房とは思えぬ女の声が、「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさんで、こちらの方へ近づいてくるではないか。とてもうれしくなって、ふいと袖をおつかまえになる。)

 女のこの歌によって、朧月夜の君と呼ばれることになる。源氏は偶然に出会ったこの女性が、いかなる人であるかも知らぬまま一夜の情けを交わすことになった。というのも、酔心地であったせいであると同時に、この相手がいかにも若々しくもの柔らかであり、源氏の身も心も惑溺させるものであった。
 明け方になり、人々が起き騒ぐので、二人はあわただしく扇を取り交わして別れることになったが、いったいあれは誰なのかと、一夜の逢瀬によって忘れえぬ人となった朧月夜のことをあれこれと詮索する源氏に、彼女と再会する機会が早く訪れることとなった。 
 それは、3月20日、右大臣邸では弓の競技が行われ、ひきつづき藤花の宴が催される。招待された源氏は、その夜酔いにかこつけて席をはずし、先に取り交わした扇をしるべに、今度ははっきりとその素性を知って逢瀬を持つことができたのである。
 しかし、右大臣家では、近々この六の君を、東宮である朱雀院の後宮に入れ、やがては后の位にまで押し立てようという考えであった。いかにも、彼女はその身に右大臣家の命運のかけられている大事な姫君であったが、思いも寄らぬ源氏との出会いによって運命は大きく変えられ、源氏もまたこの人との奇縁によって思いがけない不幸を招き寄せることになったのである。
 その後、源氏と朧月夜との交際は、父の右大臣も姉の弘徽殿も知らぬところでひそかに続けられたが、彼女のかねてより源氏に寄せる思いが普通でなかったことから、右大臣は、源氏の正室の葵上の亡くなったあと、この姫君をあてようという気持ちにもなっていた。しかし、源氏を憎む弘徽殿にとって、そうした縁組は同意しがたいことであった。