古典に学ぶ (101) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─ 柏木の病と死③ 柏木の懸想─
実川恵子
「しをれた」桜の枝を弄びながら、ポーズを決めている夕霧は、この時20歳、女三宮は15歳である。釣り合いの取れた年頃であるから、当然夕霧にどうかという話もあったのである。しかし、女三宮は朱雀院の深く溺愛していた皇女であり、世評の高い姫君を、父光源氏に奪われてしまったことが夕霧には残念でならないのである。
蹴鞠の疲れを休めるふりをしながら、夕霧は女三宮の住まいの気配に耳をすまし、その気配を窺おうとする夕霧の企みは、柏木というもう一人の同調者を生み出してしまうのである。
督の君(かん)つづきて、「花乱りがはしく散るめりや。桜は避(よ)きてこそ」などのたまひつつ、宮の御前(おまえ)の方(かた)を後目(しりめ)に見れば、例のことにをさまらぬけはひどもして、色々こぼれ出でたる御簾のつまづま透影など、春の手向(たむ)けの幣袋(ぬさぶくろ)にやとおぼゆ。(若菜上)
(督の君=柏木も続いてやって来て、「花が入り乱れて散っているようだな。(風は)桜をよけて吹けばよいのに。」などとおっしゃりながら、女三宮のお部屋の方を横目で見ると、いつものように、特に用心してもいない様子であって、(女房の着物が)色とりどりにこぼれ出ている端々(はしばし)や、(御簾を通して)透いて見える姿などは、春の旅に道祖神(どうそじん)にそなえる幣袋(ぬさぶくろ)ではあるまいかと思われる。)「幣袋」は、旅の途中に、安全を祈り、道祖神に供える幣。中に麻・木綿、のちに紙、布などを細かく切って入れた袋。
二人で階段の中ほどで蹴鞠を見物するふりをしながら、女三宮の気配に耳をすまし、目を配っていると、女三宮の住まいからは、女房たちの色鮮やかな衣がはみ出し,透き影が見えて、この蹴鞠への女たちの熱中と陶酔が感じられる。それと同時に見られている立場にあることへの警戒心の欠如や気の緩みも見え、それがまたひそかに目を配る夕霧と柏木の心を浮き立たせるのである。
この場面で繰り返される「乱れがはしき事」「乱れ事」「乱りがはし」「乱れがはしさ」「乱りがはしく散る」などの「乱れ」の言葉が続けざまに表れるのも、六条院体制の綻び、緩み、乱れを示唆していよう。完璧で隙を見せない六条院にも、女三宮のような隙と綻びを見せる女君が迎えられ、「乱れ」が気遣われる状況になっていたのである。そして、そこで開催された「乱れがはし」き蹴鞠によって、女三宮の女房たちの「乱れ」はさらに誘発され、揺り動かされる。蹴鞠という乱れ」によって六条院の「花の蔭」の閉塞性は打ち破られ、若い世代による新しい秩序が模索されるさまを、落花が舞い散る光景は気づかせているのである。
さて、この後の展開に一役買うのが唐猫(からねこ)である。唐猫は、舶来種の猫で、とても珍しいので宮中や上流社会で飼われていたらしい。次回にまたがってしまうが、猫の戯れによって、女三宮の垣間見が可能となるべき条件は整えられたのである。想像を逞しくしながら読んでみたい。
御几帳どもしどけなく引きやりつつ、人げ近く世づきてぞ見ゆるに唐猫のいとちひさくをかしげなるを、すこし大きなる猫追ひ続きてにはかに御簾のつまより走り出づるに、人々おびえ騒ぎて、そよそよと身じろぎさまよふけはひども、衣の音なひ、耳かしがましき心地す。 猫はまだよく人になつかぬにや、綱いと長くつきたりけるを、物にひきかけまつはれけるを、逃げむとひこじろふほどに、御簾のそばいとあらはに引きあげられたるを、とみにひき直す人もなし。この柱のもとにありつる人々も、心あわただしげにて、ものおぢしたるけはひどもなり。
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