古典に学ぶ (103) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─ 柏木の病と死⑤ 夕霧の心情─    
                  実川恵子

 柏木は親友夕霧と共に一休憩のため、寝殿の南面の階段に腰を降ろしている時、気になる西側の女三宮の居所にふと目をやると、大きな猫に追われて怯えた小さな唐猫が綱につながれたまま逃げまどっている。その綱が女三宮や女房達を隠すはずの御簾を引き上げてしまった。そこに見た袿(うちかけ)姿の人こそ女三宮その人であった。

 大将、いとかたはらいたけれど、はひ寄らむもなかなかいと軽々しければ、ただ心を得させてうちしはぶきたまへるにぞ、やをらひき入りたまふ。さるは、わが心地にも、いとあかぬ心地したまへど、猫の綱ゆるしつれば心にもあらずうち嘆かる。ましてさばかり心をしめたる衛門督は、ふとふたがりて、誰ばかりにかはあらむ、ここらの中にしるき袿姿よりも人に紛るべくもあらざりつる御けはひなど、心にかかりておぼゆ。さらぬ顔にもてなしたれど、まさに目とどめじやと、大将はいとほしくおぼさる。わりなき心地の慰めに、猫を招き寄せてかき抱きたれば、いとかうばしくてらうたげにうちなくもなつかしく思ひよそへらるるぞ、すきずきしや。(若菜上)

(大将=夕霧は、まったくはらはらするけれど、御簾を直しに近寄るにしてもかえって軽率なので、ただ気づかせて咳ばらいをなさったのではじめて、女三宮はそっと奥にお入りになった。じつは、大将自身の心にも、まことに物足りないお気持ちになられるのだが、猫の綱を放して御簾がおりてしまったので、思わずため息がもらされる。夕霧にもまして、あれほど女三宮を思いこんでいる衛門督は、胸が急につまって、あの方はいったい誰ほどの方であろうか、多くの女房の中で際立った袿姿から見ても他の人と見まちがうはずのなかったご様子など、心にかかって思い出される。柏木はさりげないふりをしているが、どうしてあの三の宮の姿に目をつけないはずがあるものかと、大将は女三宮を気の毒にお思いになる。柏木がやるせない気持ちの慰めに、あの唐猫を招き寄せて抱いたところ、女三宮の移り香がたいそうこうばしく匂っていて、いかにもかわいらしく鳴くにつけても、自然と女三宮に慕わしく思い比べられるとは、どうも好色じみていることである。)

 柏木と同時に女三宮を垣間見することになった夕霧がまず何よりも先に気づいたのは、女三宮の美しさよりも、不用意にもその姿を男の目に晒すような宮の軽率さを非難しないではいられなかったのである。ところが柏木の方は、一瞬のほのかな垣間見であっても宮の姿を見ることができたのは、長い間の慕情の報いられる前ぶれにちがいないと一方的に思い込んでしまうのであった。彼は自分の胸中に設けた女三宮の虚像をますます美化し、その美化された虚像に向かって一途に情熱を燃やし、その情熱をさらに充電していったのである。
 この柏木の女三宮の垣間見が、結局彼の運命を狂わせるのである。女三宮にいよいよ心を燃やす柏木は、七年後源氏が紫の上の看病に忙殺されている隙に、小侍従の手引きで女三宮と念願の逢瀬を遂げたのであった。そして、不義の子薫を宿らせてしまうのであった。
 女三宮の苦悩の人生が始まり、柏木から寄せられた消息を不注意にも源氏に見られてしまったことから、この懐妊が柏木との密通であることを知られてしまったのである。病み臥す女三宮は生き地獄のなかを生きる人となってしまうのであった。