古典に学ぶ (110) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─「宇治十帖」物語の病と死⑤ 八宮の病と死ー
実川恵子
薫は八宮を知り、三年程たった有明月の下、お忍びで宇治の八宮の山荘にそっと近づいて行くと、楽器の演奏が聞こえてきた。
近くなるほどに、その琴とも聞き分かれぬものの音(ね)どもいとすごげに聞こゆ。常にかく遊びたまふと聞くを、ついでなくて、みこの御琴の音名高きもえ聞かぬぞかし。よきをりなるべし、と思ひつつ、入(い)りたまへば琵琶(びわ)の声んぼ響きなりけり。黄鐘調(わうしきてう)に調べて、世の常のかき合はせなれど、所がらにや耳なれぬ心地して、かき返す撥(ばち)の音も、ものきよげにおもしろし。筝の琴、あはれになまめいたる声して、絶えだえ聞こゆ。
(八宮のお住まいが近くなるころに、どのような楽器とも聞き分けられない合奏の音が、ぞっとするほどすばらしい感じで聞こえる。薫は「いつもこのように楽器を奏でていらっしゃると聞いているが、今までは機会がなくて、八宮の名高い御琴の音も聞くことができないでいることだ。ちょうどよい機会であろう」と思いお入りになると、その楽の音は琵琶の音の響きなのであった。黄鐘調(雅楽の唐楽の六調子の一つ、バイエルのような小曲か)に調子をととのえて、普通のかき合わせの曲ではあるが、場所柄でそう感じるせいか、聞きなれない気がして、下からすくい上げる撥の音も、なんとなく澄んだ感じで興味深い。筝の琴が、しみじみと哀調を帯び、優雅な音色で、とぎれとぎれに聞こえる。)
薫が山荘に近づくこの場面は、「その琴とも聞き分かれぬ」程度の距離から、邸内に入ると「琵琶の声の響き」とわかる。そして曲は黄鐘調にととのえるために弾く小曲と判明する。しかも「かきかへす撥の音」、撥の下から上へすくい上げる音までもが聞きとれる。筝の音もとぎれとぎれに聞こえる。薫がすぐ近くまで来ていることが知られる。夜なので、「音」によってその情趣を醸し出している。同時に、この接近の度合いは、また薫の気持ちが次第に深まっていく度合いをも表している。見事な「音」による描写である。
この秋の末、八宮は山籠りで留守であることを知らされる。しかし、その折、月光のもと、筝の琴と琵琶をかなでる美しい姉妹の姿を垣間見る。物語が大きく展開する有名な場面である。
あなたに通ふべかめる透垣(すいがい)の戸を、少し押し開けて見たまへば、月をかしきほどに霧りわたれるをながめて、簾を短く巻き上げて、人々ゐたり。簀子(すのこ)に、いと寒げに、身細くなえばめる童一人、同じさまなる大人などゐたり。内なる人、一人柱に少しゐ隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつつゐたるに、雲隠れたりつる月のにはかにいと明かくさし出でたれば、「扇ならで、これしても、月は招きつべかりけり。」とてさしのぞきたる顔、いみじくらうたげに、にほひやかなるべし。添ひ臥したる人は琴の上にかたぶきかかりて、「入り日をかへす撥こそありけれ。さま異にも思ひ及びたまふ御心かな。」とてうち笑ひたるけはひ、いますこし重りかによしづきたり。「及ばずとも、これも月に葉なるるものかは。」など、はかなきことをうちとけのたまひかはしたるけはひども、さらによそに思ひやりしには似ず、いとあはれになつかしうをかし。
(薫が向こうの姫君の部屋に通じるはずになっているらしい透垣の戸を、すこし押しあけてご覧になると、月が風情のある程度に霧が一面にかかっているのをながめるために、簾を短く巻き上げて、女房たちが座っていた。簀子に、たいそう寒そうに、身体がほっそりして、糊気のない身体に慣れた着物を着た女童が一人と、同じような様子をした年かさの女房などが座っていた。廂の間の奥にいる姫のうち、一人は柱に少し隠れて座り、琵琶を前に置いて、撥を手でもてあそんでいたときに、雲にかくれていた月が急にたいそう明るくさし出たので、「扇でなくて、この撥ででも、月は招き返すことができるのですね。」といって、月の方をさしのぞいた顔は、とてもかわいらしく、つやつやと美しい様子である。)(以下次号に)。
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