古典に学ぶ (83) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─ センセーショナルな物語のはじまり④ ─
実川恵子
画期的な冒頭文に続き、「はじめより我はと思ひあがりたまへる御方々(かたがた)、めざましきものにおとしめそねみたまふ。」(宮仕えの初めから、我こそはと自負しておられた女御がたは、このお方を、目に余る者とさげすんだり憎んだりなさる)とある。「はじめより我は」は、心内語(しんないご)と呼ばれ、心に深く考え思ったことば、あるいは心の中だけで展開される言語で、心内語(しんないご)ともいう。つまり、「自分は当然、天皇に寵愛されるべきだ」の意で、この下には「御方々」とあるように、女御たちを意味する。
大臣クラスの后妃たちは、当然天皇に愛されるべきだと自負しており、だからとりわけ一人だけにときめかれている后妃に蔑視のまなざしを向けているというのがこの場面の状況である。ところが、「同じほど、それより下臈(げらふ)の更衣たちはましてやすからず」(同じ身分、またはそれより低い地位の更衣たちは女御がたにもまして気持ちがおさまらない)とある。この「ほど」という言葉は、身分を意味し、「それ以上に女御がたにもまして、気持ちがおさまらない」と、もっと激しく憎むのである。
天皇もその背後にいる大臣たちの権力を認めて、いつもと変わらずに寵愛するのだが、更衣たちは身分が低いためにそもそもチャンスが少ないうえに、一人に独占されているので、ますますチャンスはない。しわ寄せが直接及ぶことになるというのだ。だから「おとしめそねみたまふ」(さげすんだり、憎んだりなさる)という感情と、「ましてやすからず」(気持ちがおさまらない)という憎しみの情との間に大きな落差があるということを読みとるべきである。
さらに、もう一つ注目すべきことがある。それは、女御に対して「御」という敬語が用いられているのに対し、「それより下臈の更衣たち」には敬語が付されていない。作者紫式部の父である為時は、正五位だから更衣に対しても敬語を用いるべきなのに、それがない。つまり、紫式部のとった手法は、物語中に語り手を設定するという方法であったことが見えてくる。
『源氏物語』では、一人ではなく複数の語り手を設定し、それが巻毎に異なるということがある。そうすると、この語り手というものを設定することによって、登場人物とその語り手との間に、何らかの関係性を作る必要があったということにもなろう。そういうふうに考えると、この「桐壺」巻では、女御には敬語を使っても、更衣には使わなくてもよい立場の天皇付きの女房のような人物が語り手として設定されていると考えられる。
続き、「朝夕(あさゆふ)の宮仕(みやづかへ)につけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふつもりにやありけん、いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人の譏(そし)りをもえ憚(はばか)らせたまはず、世の例(ためし)にもなりぬべき御もてなしなり。」(朝夕の宮仕えにつけても、そうした人々の胸をかきたてるばかりで、恨みを受けることが積もり積もったためだったろうか。まった病がちの身となり、どことなく頼りなげな様子で里下がりも度重なるのを、帝はいよいよたまらなく不憫な者とおぼしめされて、他人の非難に気がねなさる余裕さえもなく、これでは世間の語りぐさとならずにはすまぬもてなされようである)とある。
病気は内裏においては、不吉なものであるから桐壺更衣は、御殿を出て、実家に帰ることになる。そうすると、会えないという不在が、桐壷帝にさらなる愛情を呼び起こすことになる。こうした帝の桐壺更衣への愛情のたかまりは、『源氏物語』前半部の主題として大きくかかわり、「世のためしにもなりぬべき御もてなしなり」いう状況が生まれたのである。
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