古典に学ぶ (131) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─「病」と「死」を物語はどう描いたかか⑮ 藤壺の宮③ ─
                        実川恵子 

 桐壺帝は、源氏を次代の天皇の世継ぎとなしえなかった無念さを、冷泉院を東宮に立てることで解消しようとした。そして、退位を前にして藤壺を立后させたのも、東宮の地位の安泰を願ったからであった。やがて、朱雀院に位を譲り上皇となった帝は、藤壺とともに平穏な日々を過ごしたが、源氏23歳の年に病を得て崩御された。その後、朱雀院の母弘徽殿(こきでん)の大后(おおきさき)や右大臣一門の横暴なふるまいに左大臣家の勢いは衰退していった。そうした時勢の中で、もし源氏と藤壺の極めて秘密な関係が知られることになったら、東宮はもとより、二人も身の破綻を免れることはできなかったであろう。しかし、この過酷な時を耐え抜き、やがて冷泉院の治世を招き寄せることができたのは、まさに藤壺の知恵があったからであった。
 藤壺は故院の一周忌の法要をすませ、法華八講(
ほっけはっこう)の催しの最後の日に突然出家してしまった。この法会は、『法華経』全八巻を八座に分けて講説する法会で、一日に朝座夕座の2度行われ、4日間連続して完了する。この藤壺の決断は、密かな思案の果てに選択した進退であった。藤壺がわが子の東宮の地位を守りぬくためには、唯一の後見と頼む源氏の力を仰ぐしかなかったのだが、その源氏から危険な情熱が身に迫ってくるのをどうしようもなかった。ある夜、源氏は積もる年月の抑えた欲情に盲目となり藤壺の三条宮に忍びこんだ。なんとか逃れた藤壺は、互いに地位や体面の崩壊を怖れない彼の情熱を封じるためには、わが俗人の姿を捨てるしかないと悟ったのである。この藤壺の出家は、源氏に大きな打撃となった。そして、彼自身もこの世を遁れたい思いに駆られたのである。しかし、ついに踏みとどまったのは、藤壺に去られた後の東宮を支えるのは実父である自分しかないと自覚したからであった。
 藤壺は女の身を葬ることで、源氏の助力を取り付けることができたのであった。やがて、隠忍自重の甲斐あって冷泉帝の治世を待つことができた藤壺は、帝の母后としてすばらしい待遇を受け、仏道に専念する日々を過ごす身となった。藤壺は人々に対する慈愛があつく、常に節度を保ち、人情と道理をわきまえた理想の母后として世間にあがめられたのであった。
 しかし、この世間的には輝かしい藤壺の人生も、源氏と共有した罪を土台としていたのである。源氏32歳の春、藤壺は37年の生涯を閉じてしまったのであった。その折の藤壺の臨終の言葉は、

 「院の御遺言にかなひて、内裏(ち)の御後見仕うまつりたまふこと、年ごろ思ひ知りはべること多かれど、何につけてかはその心寄せことなるさまを洩らしきこえむとのみ、のどかに思ひはべりけるを、いまなむあはれに口惜しく」 (十九帖「薄雲」)
 (故院のご遺言どおりに、今生の御後見としてお仕えくださいますお志のほどは、前々からとてもありがたく存じておりますけれど、どういう折に、それについての格別な感謝の気持をお伝え申しあげようか、とそんなふうにばかり、気長に考えておりましたのですが、今となってはしみじみと無念に思われまして)

 死の直前、藤壺は現世に無類のわが栄華ながらも、憂愁の人生であったことを反芻し、出生の秘密を知らぬわが子、冷泉帝への不憫さがこの世に残るであろうことを慚愧した。
 そして、宮は「燈火などの消え入るやうにてはてたまひぬれば」(あかりが消え入ってしまうようにして、御息をおひきとりになってしまった)。
 この言葉は、表面的には桐壺院の遺言を守ったことへの感謝を述べながらも、冷泉帝への心づかいに触れることで、源氏への愛をこめたものとなっている。