古典に学ぶ (132) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─「病」と「死」を物語はどう描いたかか⑯ 紫の上① ─
                        実川恵子 

 紫の上は、光源氏とかかわりをもった多数の女性たちのなかで、彼の青春期から51歳の最晩年に至るまで、伴侶として生をともにした唯一の人物であった。藤壺の兄の兵部卿宮(ひょうぶきょうみや)の娘だが、その生母は世間に認められた妻ではなかった。兵部卿には身分の高い北の方がおり、紫の上の母は早く世を去っていたので、祖母の許で育てられた。その祖母と共に兄にあたる北山の僧都の庵に身を寄せていた。その折、たまたま瘧病(わらわやみ)で同じ北山の聖のもとに加持を受けに訪れた18歳の源氏に見初められた。

 源氏が紫の上を見いだす「若紫」帖の一場面はとても印象的である。先にも触れたあの「北山の垣間見(かいまみ)」である。源氏の目にとらえられた10歳ほどの可憐なこの少女に目をひきつけられた源氏は、その容貌が藤壺の面影に似ていることに気づく。思いの遂げられないあの藤壺のかわりに、この少女を手元に引き取り、理想的な女性として教育し、慰めにしたいと願う。
 源氏は僧都や祖母にその意向を申し入れたが、あまりに唐突なこととして受け入れられなかった。やがて祖母に死別し、父宮邸に引き取られることになっていると聞いた源氏は、先手を打ち、我が邸の二条院の西の対に住まわせた。

 紫の上は清純、可憐であり、きわめて聡明であり、また素直であったので、源氏は彼女を藤壺に劣らぬ女性にしようと期待し、努力した。そして、非のうちどころのない素晴らしい女性として成長していったのである。源氏の22歳の年、14歳になった紫の上と新枕を交わし、以後、紫の上は大切な妻として重んじられていった。この間、源氏と藤壺の密事、源氏の父帝の桐壺院の崩御、そして朧月夜との仲が露顕し、須磨配流という状況の中で、別離の悲しみに耐えつつ、源氏不在の邸を守りぬいた。
 彼女がそうした苦境の中で侍女たちからも慕われ、無事に留守を守ることができたのもそのすぐれた人柄のせいでもあった。

 2年半の歳月が流れ、源氏は朝廷の許しを得て、都に帰還することができた。まもなく朱雀帝は退位し、源氏と藤壺との間に生まれた冷泉帝の治世となった。この新帝の後見としての源氏の繁栄の時がいよいよ訪れたのである。
 今や紫の上は、押しも押されもせぬ政界の重鎮として栄達していく源氏に最もふさわしい妻として重みを増していったが、そこには彼女なりのさまざまな苦労があった。それは、源氏の須磨流謫の時、隣国の明石の地で、播磨の前司入道の娘、明石の君と出会い、その人に娘を生ませていたことである。源氏の子を生むことができなかった紫の上にとって、この明石の君の出現は大きな打撃となった。しかし、源氏の配慮もあってこの明石の君の娘をあずかり、養女として后教育を施した。
 また、源氏32歳の春、藤壺は病で亡くなり、その心の空洞を埋めるべく昔から思いを寄せていた朝顔の姫君に執心を燃やしたこともある。このように、紫の上はいつも平穏な妻の日々を過ごしていたわけではなかった。それでも源氏の愛を最後までつなぎとめ、源氏の権勢の象徴たるべきこれまでかかわりのあった女性たちを四季の町によって構成し、住まわせた六条院が造営されたとき、紫の上はその春の町の女主人として最も重んじられたのであった。