古典に学ぶ(146)
 日本最高峰の物語文学『源氏物語』の世界を繙く
─ 「病」と「死」を物語はどう描いたか㉚ 柏木の死が拓くもの② ─
                                                               実川恵子

『源氏物語』とほぼ同時代の歌人で、私が長年取り組んできた和泉式部に次の和歌がある。
         小式部内侍なくなりてむまごどものはべりけるを見てよみはべりける
   とどめおきてたれをあはれとおもふらんこはまさるらんこはまさりけり
 この和歌には死者あるいは死にゆく者を「あはれとおもふ」という表現のかたちが見出される。和泉式部が亡き娘小式部内侍の思いを想像し、故小式部内侍がこの世に残していった者たちのなかでやはり子のことを一番「あはれとおも」っていることだろうと詠じている。死に後れた自分が幽明界を異にした小式部を思う心情とも響きあいながら、死者からの思いが想像されている。
 このように和泉式部は死にゆく者の側においても、印象深い別れのようなものとして謳いあげている。その和泉式部に、前号引用の『源氏物語』柏木巻の「この煙ばかりこそはこの世の思ひ出ならめ」の語句と似る次の詠、
   ここちれいならずはべりけるころ人のもとにつかはしける
   あらざらんこの世のほかのおもひでにいまひとたびのあふこともがな
                                                                     (後拾遺集・恋三・七六三)
という歌があることも、先の特色と無関係ではない。「この世」というものの見方において、両者は同質のものを有しているように思う。ただ死んで消滅し、無情の世の塵として果てる者というより、あたかも地上を去って別の世界へ行こうとしているかぐや姫と同じ心の在り様であり、旅立とうとしている者の眼差しに通じる。
 死が別れであること、死にゆく側の者にとってもそれが別れであることが、はかなく去ってしまわなければならない「この世」独特の存在感を浮き上がらせるような眼差しのもとに、見据えられている。仏教的来世を思う志向が次第に高まってくる時期に、来世志向の思念と拮抗するかのようにして、またはそうした仏教的な世界観を再解釈するかのようにして、文学作品に表されるようになった新しい「この世」の眺め方である。
 柏木巻巻末の柏木の死が世のすべての人の「あはれ」をそそり、生前の柏木の思いと呼応するかのような顛末を見せるのも、こうした奥行ある世界観が拓かれているからなのかとも考える。和泉式部の歌ときわめて似た手法で、この世・かの世の遠くはるかな眺めを映し出している。
 「この世」をいつか去り行くべき世界として眺める眼差しから、死を描く文学の一面を眺めてみた。はかない仮の世に住むのが人間の在り方であり限界なのだという視点とも近接する。同時代の思潮の中に、『源氏物語』が『竹取物語』を再解釈し、吸収し直す素地が様々に用意されていたともとらえることもできよう。
 人間という命の限界を帯びながら、なおいつかその限界を不可抗力的に超えていかなければならない人間のあやうくも不可思議な運命を、この物語は見つめ続けている。それは仏教の悟りのようなものではなく、出離に重点を置く特異さにも気づかされる。仏教思想や仏教的来世への畏怖を見据えながら、『源氏物語』は独自な世界観や死生観が描かれていくのである。
 何度読んでも、紫式部の類まれな才能に驚かされる。そして新たな疑問や複雑精緻な深さを持つ、きわめて刺激的な知の世界であることも興味深い。なぜ私たちは『源氏』に心惹かれ、魅せられつづけるのか、まだまだ考えることがありそうだ。
 つまらない、意を尽くせぬ駄文をお読みくださった皆様に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。