古典に学ぶ (87) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─ 『源氏物語』という物語名の意味するもの① ─    
                            実川恵子 

 『源氏物語』は、物語の冒頭から妬みによる非業の死、つまり横死によって桐壺更衣は亡くなっていく。更衣は言い残したいことがありそうな気配を見せながら、帝に何も語らずに死の道を行くのである。その更衣の身、母として考えるなら、残された我が皇子が何よりも気がかりである。
 光源氏を東宮にしたいという思い、それを叶えてやることが母、更衣の最期の願いである。しかし、光源氏を東宮にしたらどうなるか、帝が更衣を溺愛した時以上に世間の反発を呼ぶことになる。皇子の無事な成長を祈るなら、その願いは隠して口に出さず、むしろ断念したと見せておく方が良いのである。
 一方、更衣をあれほど溺愛した帝であるから、愛する人の腹に生まれた光源氏を溺愛しないはずはない。また、帝は次の皇太子にこの皇子を立てるかも知れないという噂が、この狭い宮中をかけ巡るに違いない。本来、順番では、次の皇太子になるのは、右大臣の娘、弘徽殿女御の生んだ第一皇子である。生まれといい、背景の権力といい、出生順といい、非の打ちどころがない。この第一皇子を押しのけて、この皇子が東宮に立てられるとしたら、きっと右大臣勢力は黙っていないはずである。あら捜しをして失脚を目論むに違いない。そうはさせないために帝はどんな決断を下したのか。

 帝、かしこき御心に、倭相(やまとそう)を仰(おほ)せて思しよりにける筋(すぢ)なれば、今までこの君を親王にもなさせたまはざりけるを、相人はまことにかしこかりけり、と思して、無品親王(むほしんわう)の外戚(げさく)の寄せなきにては漂(ただよ)はさじ、わが御世もいと定めなきを、ただ人(うど)にておほやけの御後見(うしろみ)をするなむ、行く先も頼もしげなめることと思し定めて、いよいよ道々の才(ざえ)を習はさせたまふ。際(きは)ことにかしこくて、ただ人(うど)にはいとあたらしけれど、親王(こ)となりたまひなば、世の疑ひ、負ひたまひぬべくものしたまへば、宿曜(すくえう)のかしこき道の人に勘(かむが)へさせたまふにも、同じさまに申せば、源氏になしたてまつるべく思しおきてたり。

 (帝は、畏れ多い御心に、倭相を仰せつけてすでにご存じ寄りでいらっしゃった筋あいのことなので、いままでこの若宮を親王にもなさることをしなかったのだが、この高麗の相人はじつに賢明な者であるとお考えになって、若宮を、無品親王で外戚の後見もないという不安定な状況で宙に迷わせることはすまい、わが治世もいつまで続くかまったくわからないのだから、臣下として朝廷の補佐に任ずるというのが、将来も安心のように思われることだと、ご決心あそばして、ますます諸道の学問をお習わせになる。格別に賢くて、臣下にするには非常に惜しいけれども、もし親王になられたなら、世間の疑惑を必ずこうむるにちがいなくていらっしゃるので、宿曜道の名人に判断をさせてごらんになっても、やはり同じようにお答え申しあげるので、臣下に列して源氏にさしあげることにお決めになった) (「桐壺」巻)

 帝は、心を鬼にして親王を「源氏」という身分に落とす決断をしたのだった。「源氏」とは、天皇家と「源」(みなもと)を同じくする一族の意である。また、天皇の子で元服の際、他の誰よりも恵まれたスタートラインに立てる存在であり、源氏であることは、皇子に自己の持つ能力を発揮する機会を与えることでもあるのだ。
 親王ならば、儀式用のお飾りのような存在であり、臣下に降りることで、皇子は能力次第で、実力を政治の場で生かすことができる。しかし、「源氏」になるということは、同時に皇位継承の権利を放棄することを意味するのである。