はいかい万華鏡(13)
─「うりずん考」 想像を遊ばせて ─
                                             蟇目良雨 

 新発田の借家は駅3分にある諏訪裏という町にあり、大倉製糸の工場の通路にあった。学校までは10分で行けて田圃の間を通学した。足が悪い以外は健康で背も高く教室では後ろに坐っていた。ただ、時々血痰を吐くことがありこの原因は30歳になるまで不明であった。
 中学2年の秋に担任から生徒会長選挙に立候補しろと薦められ渋々と出た。先生から見た私はいい加減な所があり自分を見直す機会を与えて下さったのだと思う。選挙活動もいい加減にやったので見事に落選したが、900人の生徒の投票した結果、19票という僅差であった。この時から私は自分に少し自信が持てて、担任の佐藤先生には感謝している。生徒会長になった長谷川君は堂々と運動会の行列の先頭を歩き実に見事であった。
 高校受験が迫り、私は家を出て新潟高校へ進みたかったが家庭の事情がそれを許さなくて地元の新発田高校へ入った。次姉が既に入っていたが、姉と弟の2人が1番で入ったのは初めてだと褒められた。
 新発田は城下町で、戦前は38連隊、戦後は自衛隊が駐屯した町であった。新発田高校は家からは新発田駅を挟んで反対側にあり、がらごろと下駄を響かせて通学した。新発田駅は加藤楸邨の父が勤務した駅であることを後に知った。当然楸邨の匂いも残っているのだろう。
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 沖縄の春から夏にかけての季語に「うりずん」がある。おれづみ・うりずん南風とも言い北東からの湿った風で大陸へ船を運ぶ。「陰暦2,3月頃、天地潤い、物みな芽ぐみ、生命の溌剌として勢いだし」て、彼岸明けより立夏前までの晴天日を若夏と言い、「うりずん」はその間の曇・雨天の花曇に似たなまぬるい気候を言うようである。
 内地では「あいの風」が吹き、江戸時代には出島のオランダ船などもこの風を利用して本国へ帰った。
 昔読んだ本に面白い解釈があった。それは季節風に乗ってメソポタミアのウル(ユーフラティス川下流の都市)から沖縄に来た帆船がこの「うりすむ南風(え)」に乗って再び古郷に帰るというのだ。「うり」は「ウル市」のことで「すむ」は船という意味で、「ウル市からやって来た船」のことだという。船は沖縄近海で取れるゴホウラ貝をウルに持ち帰り細工をして高貴な人の腕飾りなど宝飾品にしたと言われる。気宇壮大な物語が気に入って記憶していた。ウル市はユーフラティス川の下流に当りジッグラトと呼ばれる日干煉瓦を積み上げた巨大な塔で知られる。偉大なメソポタミア文明の民ならあり得る話だと今でも信じている。
 秦の始皇帝の使者の徐福が日本に不老不死の薬を求めてやって来た伝説なども信じたい。