はいかい万華鏡(15)
─香港アプローチ ─
                                             蟇目良雨 

 当時の新聞記者の転勤は苛酷なもので、事前に父の希望を聞いてはいたのだろうが、子供たちには関係のないところで決められていた。新発田高校2年生の夏休み中に、しかも右足の整形手術を終わったばかりで松葉杖をついている私は父の新任地、群馬県館林へ移った。転校の手続きは父親がやってくれたが家から自転車で20分ほどの郊外にある館林高校へ通い始めた。春先は空っ風が真正面から吹き付けてくる青春時代が始まった。
 姉2人は上京して大学に通っていたので、知恵遅れの姉と2歳下の妹との5人の生活が始まった。
 正田美智子さまが当時の皇太子と婚約した直後だったので、館林市は美智子さまの実家の日清製粉があるところなので大いに盛り上がっていた。いわゆる「ミッチーブーム」である。その後自己紹介をするときは「美智子さまの実家のある館林」出身であると言うと直ぐわかってくれたことは有難かった。
 転校して間もなく高校2年生の秋の群馬県下統一テストには驚かされた。新潟県と群馬県では指導のシステムが違ったのだろうか、それまでに数学で習ったことの無かった方程式にxが出て来たので零点を取ってしまった。習ったことが無かったので仕方が無いと直ぐ諦められるのが私の特技であった。その後はしっかり勉強していつの間にか理科系の生徒になっていったようだ。但し国立大学を狙っていたので国語を含めて7教科を満遍なく勉強していたことが、今、俳句を学んでいる上に影響を与えていたことは納得できるのである。

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 香港アプローチとは、香港返還前の香港啓徳(カイタック)空港に着陸することを言った。高層ビルが林立する隙間を狙って空港に着陸する難しい技術を要するためパイロット達に恐れられていたという。今は沖合に新空港が出来たためにもう無くなってしまった。
 何故こんなことを持ち出したかというと、今から30年も前に頻りに中国へ旅をしてその記録を纏めて『よき時代の 中国俳句紀行』という本を纏めたときに一番記憶に残っていたからである。
 今でこそ政治状況がギクシャクしていて中国への旅は敬遠されているようであるが、当時は日中国交回復直後であり大変友好的であったと思う。返還前の香港の熱気は楽しいものであり、新疆ウイグル自治区の烏魯木斉(ルムチ)や吐魯番、西安、哈尓濱、麗江、桂林、広州、旅順、成都、香格里拉など12ヶ所を巡って俳句の旅を記録したのである。中華料理もピンからキリまで楽しんだ。
 若い頃に学んだ漢詩を俳句に取り入れようと挑戦したのもこの頃であった。一見無駄に思われることでも何処かで肥やしになっているのかと気が付かされた。
 芭蕉も言っている「東海道の一筋も知らぬ者 風雅におぼつかなし」。皆さんも動ける内に旅を楽しんでください。