はいかい万華鏡(4)
─ 大徳寺納豆 ─
                                             蟇目良雨 

 昭和26年に川越市の中心に引っ越した。今はその名がないが江戸町といった。時の鐘のすぐそばだ。戦後の復興に国が懸命だった頃だったが、朝鮮戦争の特需も追い風になっていた。男の子たちは磁石を持ってドブや市内を流れる赤間川の中を攫って鉄くずを拾い集めバタ屋へ売って小銭を稼いだ。今考えるとこの鉄くずは朝鮮戦争の銃器に使われたのだと思う。
 小学3年生になって登校するのだが、生徒数が多すぎて校舎が不足し、二部授業と言って地区別に午前と午後に分けて通った。我が家にも、前任の親戚一家が3人居残りお互いに窮屈な思いで暮らしたそんな時代だった。
 この頃学校で模型飛行機が流行っていた。竹ひごを焙ったりプロペラを整形したり工作で手が器用になった。勉強のことは覚えていないが健康検診で尻の穴に硝子棒を突っ込まれて回虫の検査をされたりマッチ箱に便を入れて持って行ったことも思い出す。荒っぽい時代だったが子供たちが元気になったのはあの給食の脱脂粉乳で作ったミルクではなかっただろうか。
 家の食事の貧しさの例として冷や麦を挙げてみるが、裏庭で摘んだ紫蘇の葉が薬味で、おかずは出汁を取った後の煮干しだけであった。五人の子供を抱えた母親のやり繰りに感謝するほかはない。お陰様でどういう訳かすくすく育ち3年生で皆勤賞を貰った。

          ※

 NHK大河ドラマ「光る君へ」の放映により紫式部ブームである。私も早速、薄暑の京都へ式部の面影を探しに出かけた。産湯の井、邸宅跡、墓などの他、石山寺や宇治十帖の面影を求め宇治までの各所を歩いた。しかし哀しいかな源氏物語への素養が足りないために中々紫式部に肉薄することが出来なかった。そしてドラマの力をまざまざと感じざるを得なかった。そこには紫式部たちが目の前に居るように活躍しているのだ。
 ただ幸いなことに産湯の井のある大徳寺塔頭真珠庵で大徳寺納豆を入手できたことや、同じく大仙院で沢庵和尚で有名な沢庵を入手できたことで少しリアルな感覚が出て来たような気がした。
 特に大徳寺納豆は中国から寺院経由で入ったもので鑑真和上が伝えたなどの説もあり紫式部の時代にはあったと考えられる。幾度も中国に旅をして中国料理を経験した私にも珍しい味がして日に数粒を懐かしむように口中に遊ばせている。真っ黒で柔らかい丸薬のようで味は中国の臭豆腐(ちょうどうふ)のようだ。
 真夏に作り始め、天日干しを繰り返し冬に売るので大徳寺納豆や唐納豆などの「納豆造る」は夏の季語になっている。納豆そのものには季語が無く、ただ「納豆汁」が冬の季語になっている。