はいかい万華鏡(5)
─ 俳句は老人の文学ではない ─
                                             蟇目良雨 

 昭和26年に川越市に移って、小学3年生になって休まずに登校した証に皆勤賞を貰った。初めてもらった賞なので嬉しかったことを覚えている。同級生に小江戸の老舗の「亀屋」の子供が2人いた。共に山崎と言って茶葉屋の亀屋と御菓子屋の亀屋の子であった。茶葉屋の山崎くんの家に遊びに行って暗い室内で模型の電気機関車を走らせて線路と機関車の間に発する電気火花を見て喜んだものだ。表通りから倉庫までトロッコのレールが敷いてある大きな茶葉屋であった。菓子舗の亀屋は天明3年の創業らしいが子供が知る由も無くひたすら遊んだものだ。
 家が警察署の真ん前にあった。あるとき「今夜警察署に討ち入りがあるから、部屋の畳を起こして銃弾除けにして」と通知があり、不安な夜を過ごしたが何ごとも起こらなかった。その頃GHQが自治警察の制度を進めていたので川越市警察署と言った。署長さんと父が懇意で我が家の飼犬マリが生んだ子犬を引き取って貰ったりした。
 昭和26年は朝鮮で共産軍が南下を始めて連合軍が劣勢になりマッカーサーが原爆を使うと言い出して更迭された年だ。「老兵は死なず,消え去るのみ」の言葉を残して。
 この年にNHKがテレビで中継放送の実験に成功し、以後、プロ野球、プロレス、大相撲の中継が始まり日本はお隣の朝鮮半島の悲劇をよそにこの世の春を謳歌した。町にはパチンコ屋が氾濫し、いくつもの映画館があった。2本立て、3本立ての興行が当たり前で酸欠で頭がくらくらして見終わったものだ。

室生犀星「俳句は老人文学ではない」から抜粋する。
「俳句が老人文学でないことを私は述べて来たが、何時かも私が書いたやうに俳句ほど「思ひ出す文学」はちよいと見当らない、四五人の人々がよく寄りながら発句でも作つて見るかな、と簡単に戯談(じょうだん)のやうにいふのであるが、併しその次の瞬間にはそんな戯談は決して言はなくなり、そして発句が口でいふほど然(しか)く簡単には作れないといふ事実を発見するのである。這入りやすいものが奈何(いか)に実際的にはいり切れないものであるかに気がつくのだ。そして戯談といふものが言つたあとでいかに味気ないものであるかに、注意するやうになるのだ。俳句はそのやうに平明でそして何処かに柔らかい厳格さをも髣髴させてゐるのである。「一つ俳句でもつくつて見るかな」といふ軽快な戯談はもはや通らないのである。「俳句は作るほど難しくなる。」といふ嘆息がつい口をついて出て来るやうになると、もう俳句道に明確にはいり込んでゐるのだ。どうか皆さん、「俳句でも一つ作つて見るか、」などといふ戯談は仰有らないやうに、そして老人文学なぞと簡単に片づけてくださらないやうに。」(原文のまま・ルビは筆者による)
俳句を作ると老けないのは「俳句は老人の文学ではない」から。
鯛の骨畳に拾ふ夜寒かな犀星