はいかい万華鏡(9)
─ 広重に学ぶ ─
                                             蟇目良雨 

 新発田市は新潟県下越の中心地。新発田氏から溝口氏に引き継がれ10万石の土地を有したが、殆ど湿地帯であり水との闘いの後ようやく美田を得ることになる。広々とした新発田平野は秋の収穫期になると至る所に稲架襖が見られ、遠く飯豊山を背景に夕日に輝く景色は今でも目に焼き付いている。
 学校はそんな田園の真ん中にあり、外ヶ輪小学校といい1学年300人、全校で1800人の生徒がいた。都会から来た坊ちゃん刈の転校生は早速いじめの対象になった。しかも私は右足が小児麻痺の後遺症でうまく走れないことも敵は利用して、冬場は屋外で遊べないので大きな体育館のなかで遊ぶのだが、いじめ連中の1人が私を殴って逃げて行くのを私は見逃す他に無かった。しかし負けず嫌いの私はある時そのいじめっ子を捕まえてボコボコにしてやった。それ以来いじめは無くなった。こうした機会を摑めた人間がいじめから解放されるのだと思うが、今でもいじめがあるという人間の悲しい性に心を痛めるのである。
 雪が降ると商店街は雁木の下が賑わい、大通りは雪が踏み固められて郊外から引売のおばちゃんが橇でやって来た。子供たちは竹を半割りにして作った竹スケートや橇で遊んだ。
 ただし母は苦労した。当時家には洗濯機も乾燥機も無く、洗濯物は室内に下げて干した。7人家族の洗濯は大変であったろう。中々乾かなくて、冬の曇天や雪雲に覆われた雪国の生活は母にとって辛いものであった。
 母の喜びは子の成長を見ることだけだったのだろうか。

      ————————————————

 私の手元に歌川広重の「東海道五十三次驛画集」版画53枚揃がある。普段は開きもしないが、今開いてみると帙に守られていたせいか少しも傷んでいない。ベロ紺も鮮やかだ。このセットは昭和に入って刷られたものであるが、私が1966年貧しい大学院生の時に、研究室に売り込みに来たものを金も無いのに月賦で買い求めたものだった。今から60年前のことだ。
 広重の「東海道五十三次」がよく売れたのは旅に出かけなくても土地の名所、名産、言い伝えが一枚の絵に込められていて実際に行った気分にさせたことである。例えば箱根宿「湖水図」では険しい峠道を中央に配し左半分には芦ノ湖と遠くに富士山を配している。歩けば苦しくなる峠を誇張して描くことで見る者を旅をしている気分にさせたのだ。
 広重は『絵本手引草』に「ありのままの描写に創意工夫を加えたとき、まさにそれが作品になる」という意味のことを「写真(しょううつし)をなして是に筆意を加ふる時は即ち画なり」と書き残している。
 俳句でも同じことが言える。写実を徹底してその上に心象を1点でもいいから付け加えることによって俳句は生き生きする。
 広重の「江戸名所百景」は幕末の安政の大地震の半年後に描いたもので、地震で壊滅した江戸の風景を記憶の助けも借りながら描き、懐かしい江戸の姿を記憶してほしいと願って作られたものである。「江戸名所百景」によって私たちは今でも安政地震前の江戸の美しい街並を思い浮かべることが出来る。