コラム「はいかい漫遊漫歩」 松谷富彦
(60)乃木希典が愛用した左右同形の軍靴
日露戦争が終結し、第三軍司令官、乃木希典大将は、明治39年(1906)1月、日本に凱旋した。帰国後、軍事参議官に就いた乃木は1年後、明治天皇の強い意向で学習院院長を兼任。明治帝としては、翌年学習院初等科に入学する皇孫(後の昭和天皇)の教育を信頼する乃木に託すべく、就任を求めたのだ。
軍服姿の院長の登場である。乃木は自宅にあっても和服で寛ぐことはなく、軍服で押し通すようになっていた。履物も軍靴。それも左右同型の特注軍靴を明治帝の大喪直後に静子夫人を道ずれに殉死(自裁)するまで履き続けた。
半世紀近く製靴会社を経営、現在は東京台東区の皮革産業資料館の副館長を務める稲川實さんは、平成23年に出した自著『西洋靴事始め 日本人と靴の出会い』(現代書館刊)の軍靴の項で〈 明治十年代は、軍靴の試行錯誤の時代で、緊急時に暗闇でも履けるよう左右同形の軍靴なども作られたが、足を痛めるものが続出、結局失敗に終わった…京都桃山の乃木神社に、乃木大将の履いた左右同形の靴があるというが、…〉と書いている。
この項を書くに当り、稲川さんに「同形靴の発案者は、乃木希典?」と問うと「その通り。軍人は常在戦場と言う乃木さんが暗闇でも履ける軍靴として発注したんですが、部下に履かせたら横ずれで故障者続出でだめに。ところが、乃木さんは自説を曲げず、日露戦争中も学習院長になってからも自分用の軍靴を京橋にあった伊東靴店に特注で作らせ、履き続けたんです」との答えが返って来た。
そして、平成26年3月、明治帝の眠る京都の伏見桃山御陵入口にある乃木神社宝物館に乃木将軍遺愛の左右同形長短靴5足が飾られている情報を得た稲川さんは、コロンブス靴クリームの研究員を伴い、百年手入れされずにきた遺品を磨き上げて来たと言う。
ストーブに濡れたる靴の裏をあぶる正岡子規
経験の多さうな白靴だこと櫂未知子
(61)俳号が芸名になった理由
机上にB6サイズ、65ページの黄ばんだ句集を開いている。句集の題名は『交響』。1955年秋に早大俳句研究会が出した第3句集だ。奥付に印刷人として先輩俳人、高柳重信、目次に研究会の学生俳人28人の名が並ぶ。
各人15句ずつ出句の中に「ともしび」の句題で大橋巨泉(2016死去、享年82歳)の名も。〈 手袋の寡婦吊革に触れず立つ 〉〈 ガラス越しのくちづけ雪に頬打たれ 〉〈 秋冷や果のともしび底より湧く 〉 なんとも初々しい。本名、克巳。俳号を決めるに当って句作が泉の湧くようにと大泉を考えたが、姓の大橋と「大」が重なるので贔屓チーム巨人から一字取り巨泉に。
俳号もでき、研究会仲間と加藤楸邨の『寒雷』に投句、句会にも張り切って顔を出し始めた。ところが2年後輩の寺山修司が現れ、「こいつにはかなわない」と俳句修行を諦め、俳号はマルチタレントとしての芸名に変わる。
俳句で学んだ韻律ともう一つの趣味ジャズのリズムから生み出した1969年のパイロット万年筆のCM〈 みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの ハッパふみふみ 〉が一躍流行語に。俳句が身を助けである。
巨泉の1学年後輩のメンバー、折笠美秋(本名、美昭)に触れる。『交響』搭載句から1句〈 海二月ついに燦めくなにもなし 〉。折笠は卒業後、新聞記者になったが、大先輩の高柳重信が創刊した『俳句評論』の編集同人となり、俳句だけでなく、俳句評論にも筆を振るい1967年に第3回俳句評論賞を受賞した。
だが、1982年に難病の筋委縮性側索硬化症(ALS)を発症。わずかに動く口と目で夫人に意思を読み取ってもらい、句作を続け、同85年、第32回現代俳句協会賞を受賞。
代表句に〈 ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう 〉〈 麺麭屋まで二百歩銀河へは七歩 〉など。多くの句集、評論集などを残し、1990年、55歳で亡くなった。
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