コラム「はいかい漫遊漫歩」   松谷富彦
(126)新興俳句、何が新しかったのか ①

 俳句結社集団の一つ、現代俳句協会の70周年事業として協会青年部(神野紗希部長)の手で2018年12月、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂刊)が出版された。

 そもそも新興俳句は、水原秋櫻子が俳句創作に関して「自然の真」と「文芸上の真」の違いを主張し、高浜虚子の「ホトトギス」を脱会、自俳誌「馬酔木」を拠点に虚子俳句に対抗する創作活動を打ち出したのが、出発点。『新興俳句アンソロジー』の「序」で、現代俳句協会副会長の高野ムツオは書く。

〈 秋櫻子の主張の新しさは、表現者としての、言葉の働きへの意識化にあった。「『文芸上の真』とは、鉱(あらがね)にすぎない『自然の真』が、芸術家の頭の溶鉱炉の中で溶解され、加工されて、出来上がったものを指す」と述べている。ここには文芸とは言葉によって成立する世界であるとの大前提がある。言葉は「溶鉱炉」という表現主体を通じて生み出されるという認識に支えられていた。このことにもっとも鋭敏に反応したのは高屋窓秋であった。

頭の中で白い夏野となってゐる

 この句は昭和7年1月号の「馬酔木」の雑詠に わが思ふ白い青空と落葉ふる など「白い」をテーマにした他の3句とともに並んでいる。俳句は言葉で作るとの明確な意識が感じられる。それは選んだ秋櫻子も承知していたに違いない。季題と次元を異にした発想なのは明白であった。〉と高野。

 窓秋の句の新しさを最初に指摘したのは、石田波郷と言う。高野ムツオの文章を続けて引く。〈(窓秋の)句を端緒にして、多くの俳人が俳句には未知の鉱脈がいまだ無限に潜んでいると気づいたのだ。新興俳句の幕明けである。以後、戦争という社会的不安をも背景に、花鳥諷詠の世界に飽き足らない若い俳人を中心として、ときに瑞々しく、ときに鋭利にさまざまな作品が花開いていった。同時に問題も提起した。無季や抽象化などはその一つである。〉と高野は書く。

高屋窓秋本人は「俳句の表現」をどう考え、作句していたか、俳誌「現代俳句」(1950年3月号)に寄せた一文から抜き書きする。

〈 表現とは、外界の存在を、言葉に写しとることではない。それは、心に映じた直観像をそのまま言葉に直すことでもない。言葉に、そんな能力はない。言葉は、それ自身映像をもつものであって、詩は、それの特異な構造物だ。〉         (敬称略 次話に続く)

(127)新興俳句、何が新しかったのか ②

 高野ムツオ(1947年生まれ)より36歳若い協会青年部長、神野紗希は、『新興俳句アンソロジー』編纂の総括者として「はじめに――新興俳句の海へ漕ぎ出す前に」のタイトルで前文を載せている。冒頭から引く。

〈 次の命題、あなたなら、どちらが正しいと考えるだろうか。

  A 俳句は文学である。

  B 俳句は俳句である。

 ちょっと難しい命題である。次の句なら、どちらがより魅力的だと思うか。

A 来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり水原秋櫻子
B 甘草の芽のとびとびのひとならび高野素十  

 新興俳句とは、俳句は文学であるという意識のもとに、広く他ジャンルの表現に刺激を受けながら、さまざまな俳句表現の可能性を追い求めた昭和初期の文学運動を指す言葉だ。契機は、「俳句は文学である」と考える水原秋櫻子と、「俳句は俳句である」と考える高浜虚子との対立だった。〉

  明快である。虚子主宰の「ホトトギス」は、花鳥諷詠、客観写生を旗印に、俳壇の揺るぎない大権威となっていた。〈 新興俳句とは、秋櫻子離反により俳壇内に起こった、対「ホトトギス」のすべての活動と、そこから生み出された作品の呼称である。そこには芸術派もプロレタリア俳句派も有季も無季も、すべて含まれていた。〉と神野は書き、新興俳句の「運動」の展開を、節目でわけて整理した川名大著『昭和俳句 新詩精神の水脈』から次のように引用要約する。

①昭和6~9年前半 「馬酔木」「天の川」の二大俳誌を中心に、水原秋櫻子・山口誓子を先導者として展開された時代。特徴として、連作への挑戦が挙げられる。

②昭和9年後半~昭和12年前半 新興俳句運動の全国的な勃興。文体や無季俳句など、斬新かつ多様な俳句表現様式の革新運動が行われた。その近代主義に対抗して生活俳句、リアリズム俳句の運動が興ったのもこの頃。

③昭和12年後半~昭和16年 日支事変勃発以後、戦争を俳句形式で表現することを目指した戦争俳句の時代。昭和15~16年の「新興俳句弾圧事件」(「京大俳句」事件)により主要誌が終刊、終止符が打たれる。

〈 虚子への反乱からはじまった新興俳句は、大きなうねりとなり、「ホトトギス」を経由しない俳人たちが活躍し、俳句という詩型に現代の若々しい息吹が吹き込まれた。

既存の俳壇とは違う場所から、文学を志す若者が現れ、新たな俳句運動を展開する。これは正岡子規が起こした俳句革新と同じ構図だ。子規は自著『俳句大要』で、「俳句は文学の一部なり、文学の標準は俳句の標準なり。即ち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準を以て論評し得べし」と述べ、「四季の題目なきものを雑と言ふ」と無季句も当然のこととして認めている。子規の革命精神を引き継いでいるのは、虚子よりもむしろ新興俳句の作家たちではなかったか。〉と神野は記す。(敬称略 次号に続く)