コラム「はいかい漫遊漫歩」   松谷富彦
(128)新興俳句、何が新しかったのか ③ 

 「ホトトギスの4S」(水原秋櫻子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子)に名を連ねていた山口誓子も、水原秋櫻子の後を追って「ホトトギス」を離れ、秋櫻子の「馬酔木」に加入する。

 風物を叙情性豊かに詠む秋櫻子、都会的な素材を取り込み、知的、即物的な詠句を次々に発表する誓子の作句活動は、「ホトトギス」一色だった俳壇に新風を吹き込むことになった。「天の川」「土上」「句と評論」などの俳誌に拠る若手俳人たちの共感を呼び、俳句の近代化への動きが湧き上がる。

  誓子の第1句集『凍港』を出版した俳人、金児杜鵑花(かねこ・とけんか 「俳句月刊」「俳句世界」などの発行,主宰)が、「文芸上の真」を標榜する誓子らの作句を「新興俳句」と名付けたことから、新風は俳句革新の大きなうねりとなって行く。新興俳句が全国的に勃興した1935年(昭和10年)当時、「ホトトギス」に拠る俳人たちは、俳句革新の動きをどう見ていたか。

 『新興俳句アンソロジー』の「山口誓子」を担当、執筆した青木亮人は、「ホトトギス」幹部が高浜虚子を囲む座談会の中で、新興俳句を話題にしたくだりを俳誌「ホトトギス」(昭和10年7月号)から引く。

    清三郎 新興俳句の主張は何の影響が一番多いですか。

  草田男 実に雑多ですが、その中ではやはり、新興芸術派の都会文学の影響が多いでせうね。もっとも、誓子さん個人の影響の多いことは予想外ですが。

  風   生 秋櫻子は違ふ。秋櫻子は俳句の花鳥諷詠たることには少しも反対して居らぬ。我々のものはそれを包摂してゐる。

 青木は、書く。〈 中村草田男は新興俳句に山口誓子の影響響が強いと見なし、富安風生は誓子を水原秋櫻子以上に「花鳥諷詠」からはみ出た俳人と仄めかすなど、彼らには誓子が異教の神のように映っていたのがうかがえる。〉

  誓子が都会風物を率先して詠んだのは広く知られている、と青木は誓子自身の言葉を当時の週刊誌から引く。「工場、汽船、商館、スケートリンク、ホテル、ダンスホール、法廷などといふ都会の生活、生産ならびに消費の両部分にわたって俳句の領域を拡大してゆきたい」(「サンデー毎日」山口誓子《梅と俳句》昭和8年2月5日号)

〈 誓子が新興俳句に絶大な影響を及ぼしたのは、これらをいち早く詠んだためではなく、斬新な文体で「都会」を謳ったほぼ唯一の俳人だったために他ならない。〉と青木は指摘する。                                                                                                                                                                                                                    (敬称略 次話に続く)

(129)新興俳句、何が新しかったのか④

  続けて山口誓子の新興俳句の特徴を『新興俳句アンソロジー』の青木亮人の文章から引く。

〈 関東大震災から復興したモダン東京を詠んだ俳人は、誓子以外にも多数存在する。例えば、「俳句月間」グループは、小説界の新興芸術派になぞらえて「尖端的吟行」を敢行、東京株式取引所内の様子等を詠んだが(「俳句月刊」昭和6年10月号)、従来通りの表現や取り合わせ――〈 秋の日や古き港の如く卓 長谷小春草 》《 株は持たねど暴落を聞く秋淋し 島東吉 等――に終始するのみだった。ところが誓子句は表現そのものが従来と異なっていた。〉と青木は、誓子第1句集『凍港』所収の「アサヒ・スケート・リンク」連作(昭和7年)を例示する。

 スケートの真顔なしつゝたのしけれ

 スケートの君横顔をして憩ふ

 スケート場沃度丁幾の壜がある

 四方の玻璃スケート場を映す夜ぞ

〈 切字等をほぼ用いずに散文と見紛う文体を駆使し、開場まもない大阪朝日ビル屋上のスケート場を詠んだこの句群に多くの新興俳人が驚嘆した。従来の「スケート」は野外の凍結湖で愉しむもので、 スケートや月下に霞む一人あり 鈴木花蓑 等が定番だった時期、大都会のビル屋上リンクを連作で詠むなど前例がなかった〉ためだと青木。

  この連作所収の句集『凍港』刊行後、誓子句の文体や措辞をなぞるような句群が急増する。新興俳句の俳人たちは、なぜ誓子句に強く惹かれたのか。青木は『アンソロジー』にも登場する新興俳句派の一人、西東三鬼の言葉を引く。

 〈 新興俳句人の生活感情は散文精神であり、之に対蹠的に伝統俳句を弄ぶ人々の生活感情は韻文精神である。(中略)和田辺水楼氏が誓子氏の作品 スケート場沃度丁幾の壜がある に対して「おゝ何と云ふ迫真力!」と叫んだのは「がある」といふ散文的な口語が,(中略)散文精神的な近代人の生活の真に迫ってゐるからであらう。(「京大俳句」《 新興俳句と俳句性 》昭和10年7月号)〉

 1933年(昭和8年)作で句集『黄旗』所収句 夏草に機鑵車の車輪来て止まる の動詞終止形で句を締め括る表現は、「『都会交響曲』とでもいふ映画の序幕を観るやうだ」(「京大俳句」吉田遊魚〈 機鑵車を評す 〉昭和8年10月号)と評価された。

 〈 新興俳句陣営は「自然の中に悠々遊ぶを事として来た俳句の世界に、機械賛美の『未来派宣言』をしたのは山口誓子」(「京大俳句」和田辺水楼《風流性と生活意識》昭和11年7月号〉と礼賛したのである。〉と青木は書き、〈 水原秋櫻子や高屋窓秋らとも異なる、山口誓子が新興俳句に及ぼした最大の影響があろう。〉と結ぶ。(敬称略 次号に続く)