コラム「はいかい漫遊漫歩」     松谷富彦

(162)廃道も花火ひらいて瞬けり    又吉直樹

 芸人ピース又吉こと芥川賞作家又吉直樹は、俳人堀本裕樹との共著『芸人と俳人』(集英社刊)の「まえがき」に書く。

 〈子供の頃から、俳句に対する憧れはあったものの、どこか恐ろしいという印象があり、なかなか手を出せないでいた。なにが恐ろしかったかというと、難しくて解らないことが恐ろしかった。…「定型ってなんやろう?」「季語ってなんやろう?」「や、かな、けり、って呪文かな?」という調子で、とにかく俳句が怖かったのである。〉

 続けて引く。〈母国語である日本語で表現されたものを理解できないというのは寂しくもあった。なにより、17音という限られた字数の中で、あらゆる事象を無限に表現できる可能性を秘めている俳句を心底カッコ良いと思った。〉

 又吉の定型俳句入門の師匠となった共著者、堀本裕樹が言う。

〈『カキフライが無いなら来なかった』と『まさかジープで来るとは』、読ませていただきました。いろいろな要素が入っていて、自由律俳句として本当におもしろかったです。たとえば、「愚直なまでに屈折している」。…自意識過剰な勘ぐりみたいなものが全開のこうした句が、又吉さんの独特の味やおもしろさになってにじみ出ている。〉

〈と思いきや、この句の隣に、「蝉の羽に名前を書いて空にはなした」というまったく趣きの違う句が…僕、この句、すごく好きです。…「名前」というのは、まさに自分自身のことですよね。だから、自分自身を解放したいのかな、と思ったのです。〉応じた又吉、〈蝉って、7日経ったら死ぬっていうじゃないですか。自分の名前を書いた蝉を、7日後に捜そうと思ったんですね。子どもの頃って、そういう変なこと考えますよね。〉と。

  ちなみにこの共著書は、又吉が堀本に定型俳句の1から2年間に渡って手ほどきを受け、その経過を師弟対談や2人の「季語エッセイ」、句会報告の形で雑誌『すばる』(2012年10月号~2014年10月号)に連載した『ササる俳句 笑う俳句』に書き下ろし原稿を加えて単行本化したもの。

  師弟句を各6句、混ぜ合わせて並べるので点盛りはいかが。作句者名は末尾に。

①新刊の栞ひも引く淑気かな ②父の足裏に福笑いの目 ③爪切りと消ゴム競ふ絵双六 ④コント見てころころ笑ふ春着の子 ⑤朦朧と歓声を聞き浅蜊汁 ⑥石鹸玉飲んだから多分死ぬ ⑦鳥雲に手のひらを待つ占ひ師 ⑧蛙の目借時テナント募集中 ⑨激情や栞の如き夜這星 ⑩猫じやらし海風じやらすばかりなり ⑪銀杏をポケットに入れた報い ⑫なつかしき男と仰ぐ帰燕かな

[堀本句]①④⑦⑧⑩⑫ [又吉句]②③⑤⑥⑨⑪ (文中敬称略) 

(163)昭和とともに消えた赤帽

東京駅は2014年12月20日に開業100周年を迎えた。国鉄が6旅客鉄道会社と1貨物鉄道会社に分割、民営化されたJRは、2022年春に35年の歴史を刻む。大改革の陰で人知れず“職業往来”から消えて行ったのが赤帽。

  民営化の幕が切って落とされる1987年(昭和62年)当時、東京駅には9人の赤帽が旅客の手荷物運搬の仕事に就いていた。守備範囲は、地上、地下を合わせ29万890平方メートルの駅構内。ここを仕事場に赤い帽子、紺の上着、同色のニッカボッカとストッキング、黒短靴、夏は水色の開襟シャツで黙々と旅行客の手荷物を列車やタクシー乗り場へと運んだ。

 駅管理者と交わす赤帽の委託契約の正式名称は「駅構内手荷物運搬業務」、赤い帽子には「手廻品運搬人」の金文字が刺繍されていた。民営化直前の86年の国鉄本社広報調べでは、千歳空港駅、仙台駅、東京駅、上野駅、名古屋駅、京都駅、新大阪駅、博多駅など16駅で合わせて74人の赤帽が仕事に就いていた。

 東京駅の場合、赤帽全員が「東京駅構内手荷物運搬人組合」の株を持ちつ独立自営業だったが、詰所の光熱費などの必要経費を除き、毎日の稼ぎは規定料金もチップも頭割りで平等に分配する互助システムを採っていた。常連客は、選手時代の長島茂雄、ジュリー(沢田研二)、作家の村上元三、「赤帽は旅の風情」と愛した裏千家出身の茶道家、塩月弥栄子さん、田中角栄元首相も赤帽ファンで、通産相時代のことだが、秘書が荷物を運ぼうとすると「駅に来たら赤帽の営業妨害をするな」と叱りつけたエピソードも。東京駅の赤帽に新潟出身者が多かったことも背景にあった。国鉄とともに姿を消した“昭和の風物詩 ”。 

赤帽のポーター徘徊驛初秋高澤良一房州やはや駅弁に花菜漬福島 胖食堂車花菜明りにメニュー読む杉原竹女駅弁売り春富士の前往復す大西八洲雄麦秋と思ふ食堂車にひとり田中裕明姿鮨駅弁に鮎姿なさず石川桂郎メロン掬ふ富士見え初めし食堂車小坂順子駅弁の黒きこんにやく雁渡し桂 信子駅弁を食ひたくなりぬ秋の暮高浜年尾駅弁にはららご飯の加はりぬ伊藤玉枝