コラム「はいかい漫遊漫歩」 松谷富彦
(168)散る花を追掛て行く嵐かな 権中納言藤原定家
勅撰集『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の編纂者で『小倉百人一首』の選者として知られる鎌倉時代初期の歌人が、俳句(発句)も詠んでいたらしい。江戸時代前期に俳人、松江重頼が松永貞徳の指導のもとに編纂した俳諧撰集『犬子(えのこ)集』に搭載の「上古誹諧」の1句が見出しの定家句。
同撰集は、山崎宗鑑、荒木田守武以降の発句1530句と付句1000句に「上古誹諧」として『菟玖波 (つくば) 集』など古連歌集から選んだ130句を加えた貞門俳諧最初の公刊撰集である。俳諧研究者、加藤定彦氏によれば、〈俳諧の伝統と権威を誇るとともに、新しい時代の文芸である俳諧のもつエネルギーを遺憾なく爆発させ、以後俳諧は急速に流行〉(日本大百科全書の解説)することになった。
江戸俳諧考証家で、詩人、俳人の加藤郁乎著『俳諧志』(岩波書店刊)で著者は「門外俳句」の1項を設け、「上古誹諧」の収載句を紹介している。俳人、俳句好きの大方が「へえ!」と目を丸くするはずの詠者の名と詠句を引く。
くしの山たふれしぬべきいはね哉鴨長明
夏山や思ひしげみのこがるゝは畠山重忠
小田原は思ひの儘に苅おふせ豊臣秀吉
ときは今天が下知るさつき哉明智光秀
鶯も笠着ていでよはなの雨千利休
止むれど花にさらばや帰る雁沢庵和尚
〈 この種のものでは蓮谷の『温故集』に多数集められ、俳人以外のいわば門外俳句が拾われてあるためか為永春水の『閑窓瑣談』ほかの諸書に珍重引用されてきた。〉と書き、〈 古今、俳人外の吟草をひろく収集していることでは重厚の『句双紙』(コラム子註:江戸後期刊行の井上重厚編の俳界句合本)を逸してなるまい。〉と集中の12句を披露している。紙幅の関係でその内から5句。
稲妻の根は黒谷や宵の闇石川丈山 (安土桃山時代―江戸時代初期の武将、文人で漢詩の代表的詩人。)
落し水添水の身こそ悲しけれ木下長嘯子 (丈山と同時代の大名、歌人で、その和歌は松尾芭蕉にも影響を与えた。)
矢を負し鶴の上毛やみのゝ雪武田信玄
世の中は喰ふてはこして花の春一休和尚
三ツ山を三ツ見る雪の朝かな伊藤東涯 (江戸中期の儒者。新井白石・荻生徂徠らと親交、母は尾形光琳、乾山の従姉)
〈 疑わしい句もあるが結構楽しい。服部南郭の作として「吉原の門に五尺の菖蒲かな」「島原や雨夜の梅の薄にほひ」などが挙げられてあったが、これなど、いわばシロウト離れした達吟と申すべきであろう。〉と郁散人は書き、光琳詠の〈 秋の夜や松を尋ねん稽古琴〉〈 あるときは人の驚く案山子かな〉2句を引き、同著の項を閉じる。
(169)俳聖が愛した若き弟子・杜国
松尾芭蕉は、野ざらし紀行の途次、貞享元年(1684)に名古屋に立ち寄った。その折に門弟になったのが、当地の富裕な米穀商、坪井庄兵衛こと杜国。俳聖が数多の門弟の中でも取り分け目をかけ、寵愛する弟子となる。ときに杜国27歳。40歳の芭蕉にとって一回り若い“いけめん”の弟子だった。
2年後、愛弟子は、「空米売買」の罪に問われ、伊良子崎に近い三河の保美へ追放の刑。「空米売買」は、幕府の政策で禁止されたり、解禁されたりしていた米の先物取引。杜国は、違法を問われ、当初死罪を言い渡された。
だが、“芸(俳句)は身を助け”で、時の尾張藩主徳川光友の鶴の一声で死一等を減じられ、流刑に。『続俳家奇人談』は、杜国が詠んだ〈 蓬莱や御国のかざりひの木山 〉の句を覚えていた光友公が刑の軽減を命じたという。句意は、「蓬莱(熱田神宮)のある尾張は檜も山に繁り、美しい国」と言う歳旦の祝い句。
藩主が句を覚えていたとは、荒唐無稽な出来話とも言い切れない事情があった。武士の俸給は、米であり、米価の安定は、政治の安定に直結していた。時代は下るが、財政破たんに陥っていた幕政の改革に乗り出した8代将軍徳川吉宗が真っ先に手がけたのが、米の先物取引の解禁。狙いは米価の安定確保だった。
貞享四年(1687)、『笈の小文』の旅に江戸を発った芭蕉は、保美に立ち寄って〈 麦生へて能き隠家や畑村 〉の句を詠み、悲運の愛弟子を励ます。郷里の伊賀で越年後、師弟は伊勢、吉野、高野山、奈良、大坂…と吟行の旅を続けた。
師との忘れられぬ旅で杜国の詠んだ2句を引く。
足駄はく僧も見えたり花の雨
(幽居の身の杜国は万菊丸と名を変え、師芭蕉の『笈の小文』の旅に随行、長谷寺を詣でたときの詠句。元禄元年3月から一か月余り、師弟にとって忘れ難い二人旅となった。『笈の小文』で芭蕉は〈春の夜や籠り人ゆかし堂の隅〉の自句の後に「万菊」の名でこの弟子の句を載せている。)
吉野出て布子売りたし衣がへ
(師弟は吉野山の花見をした後衣更えの日を迎えた。芭蕉の句〈一つぬいで後ろに負ひぬ衣がへ〉の後にやはり「万菊」の名で『小文』にこの句が記されている。衣更えした衣類を荷物になるので売り払いたい、という句意。)
伊良湖に戻った杜国は、師との旅が忘れられず、思い出の檜笠を壁にかけ、眺める日々に詠んだ1句。
年の夜や吉野見て来た檜笠
杜国は師と再会することなく34歳で病没。愛弟子の死を知った芭蕉は、杜国の夢を見て涙を流したと『嵯峨日記』に書き残している。
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