コラム「はいかい漫遊漫歩」   松谷富彦

(72)わが庭で摘みたるを夜は土筆飯      三笠宮若杉

 三笠宮崇仁親王が、平成28年10月、百歳の天寿を全うされて早や一周忌。終戦時は陸軍少佐の軍人だったが、戦後は古代オリエント史の研究者として東京芸大、東京女子大などの教壇に立たれた。そして、百合子妃(95歳)と『初雪』『夕虹』の二冊の夫婦合同句集を持つ“俳人宮さま”だった。

 遺句に触れる前に父君、大正天皇と式部官の俳人、松根東洋城とのエピソードを紹介する。大正14年のこと、大正天皇が東洋城に「俳句とはいかなるものか」とご下問。とっさのことで「渋柿のごときものにては候へど」と東洋城。

 その秋、天皇から俳句を差し出すように御沙汰があり、〈長き夜や要害穿つ鶴の嘴〉〈柿噛むや青島の役に従はず〉〈秋風や世界に亡ぶ国一つ〉の三句を献じた。これがあって翌年、東洋城は俳誌「渋柿」創刊に至る。

 本題に入る。三笠宮が皇族として俳句の実作を始められたのは昭和23年、手ほどきをしたのは、高浜虚子の長女、星野立子。昭和32年に宮さまは「若杉」、妃殿下は「ゆかり」の俳号で初の合同句集「初雪」(新樹社刊)を刊行。

 若杉句からアトランダムに拾う。〈春風は壕舎の窓に訪れぬ〉〈大江戸をほこりに包み春の風〉〈引揚者鍬手に凍てる土に立つ〉〈元旦や旗を立つるも立てざるも〉〈短日や羊群帰る大荒野(昭和31年、イラクで)〉〈筆おいてうたゝ寝の夜の明け易き〉ゆかり句から。〈摘草や緑の粉のつくつくし〉〈梅雨冷えや吾子に重ね着云ひおきて〉〈吾子四人揃ひ湯上り天爪粉〉

 ご夫妻は長い中断の後、平成18年から俳人協会会長、毎日俳壇選者、鷹羽狩行の指導で句作を再開。6年後、鷹羽の勧めで結婚70年記念の第二合同句集『夕虹』(角川書店刊)を出す。出句は各150句。宮さま句から数句引く。

〈まず枝が動き飛び出す雀の子〉〈山茶花や咲いてさみしげ散ればなほ〉〈短日や戻れば我が家灯の点り〉〈女子高の卒業証書見せに孫〉戦争体験句〈枯野ゆく匍匐前進せしむかし〉〈残雪の中の演習忘れ得ず〉なども。(文中敬称略)

 

コラム「はいかい漫遊漫歩

(73 )“俳諧の清少納言”谷口田女

 士農工商の封建社会、男社会だったはずの江戸時代、芭蕉の登場で全国に蕉風俳句の流れが広がった17世紀末から19世紀前半にかけて、驚くほど多数の女性俳諧師が活躍し、百冊に及ぶ撰集が板行されていたのをご存知?

 第46話「遊女俳人哥川」で同時期の加賀千代女、谷口田女、豊田屋哥川の交流を紹介したが、『江戸おんな歳時記』(別所真紀子著 幻戯書房刊)で著者が、その俳句女子活躍の理由と事情を見事に言い当てているので引く。

〈 宮廷や大名などの支配階級ではなく一般庶民の女たちが、その時代に多数創作に打ちこみ出版物を発行する文化は、世界のどこにも累をみないものであろう。それは鎖国という他国と争ったりはしなかった260年ほどの、平和な時代の所産であったと言える。〉と。

 そう、江戸幕政は鎖国することで、他国を侵略したり、戦火を交えなかった。故に開いた庶民文化の花。別所さんは、同書の冒頭、江戸座で活躍した谷口田女の〈 子規(ほととぎす)こころに雨のふる夜かな〉(寛政元年・1789年刊『俳諧海山』)と仏詩人ポール・ヴェルレーヌの詩〈 巷に雨の降る如く われの心に涙ふる〉〈1874年刊『無言の恋歌』を並べて特筆する。

 〈 この(短詩の)共通した心理と情景を詩った東西の二人のうち、ヴェルレーヌは一般常識として広く知られている。『俳諧海山』は田女の没後出版されたもので、田女の享年は1779年であるから、句作の時期はヴェルレーヌに百年先んじているのである。しかしこの才ある江戸期の女性はその名を知られること実に少なかった。〉と惜しむ。

 田女は、夫の谷口楼川とともに江戸座の宗匠を務め、没後に養子の鶏口が編んだ『俳諧海山』には、俳句のほか名文の俳文集も収められており、「俳諧の清少納言とでも呼びたい才女」と別所さんは書く。『俳諧海山』からもう一句。

 梅が香や一筋黒き雪解 田女