コラム「はいかい漫遊漫歩」  松谷富彦

(70)百歳は僕の十倍天高し   小林凜

 聖路加国際病院名誉院長で文化勲章受章者の日野原重明さんが「生涯現役」を貫き、百五歳の天寿を全うして一月経つ。六年前から“ランドセル俳人”で知られる小林凜君(現在十七歳の高校生)と俳句を交えた爽やかな交流を続けていた。東日本大震災の三か月後、日野原さんが朝日新聞に寄せたエッセイ「災害と宮沢賢治」が、二人を結び付けたきっかけだった。

文中に〈俳句や短歌も、音楽のように再起へのエネルギーになるのではないか。〉とあった。小学生の時、いじめに遭い不登校になった凜君に俳句を手ほどきして励ましてきた祖母は、早速〈孫が俳句でいじめを乗り越えてきました。〉と書き、日野原さん宛てに投函した。すると…。以下、『冬の薔薇 立ち向かうこと恐れずに』小林凜・日野原重明共著(ブックマン社刊)から引く。

〈先生からお返事が来た時はびっくり。この年の秋に先生が百歳になられたことを知り、句を詠んでお送りしました。〉と凜君。送ったのは掲題句。

翌年の夏休み、母と聖路加国際病院に日野原先生を訪ねる。〈記念写真を撮る時、肩をそっと先生に抱かれた温かさを僕は今も忘れない。 吾の肩に師の手感じて蝉時雨〉。初対面後に先生から〈凜君とは時々俳句を交わしましょうよ。〉と俳句付きの便りが届いた。〈頭上げ流す言葉にビオラの音――凜君の声に少し大人びた音を感じて。ビオラはバイオリンよりも大きく音も低く、慎ましやかな存在なので。〉こうして九十歳差の俳句付き往復書簡が始まった。

〈ひひ孫のような君と俳句で心を交わすなんて、夢のようです。私は九十八歳の時、新しいことを創めようと思い、俳句を作る決心をしました。俳人の金子兜太先生が、私の教師となって下さり、有り難い極みです。君との俳句のキャッチボールを、先生にお伝えします。 君たちの使える時間それがいのち〉(重明)

〈祖母の子どもの頃は、煮干しがおやつだったそうです。そこで一句。 煮干し食み祖母の鼻歌秋に入る〉(凜)

コラム「はいかい漫遊漫歩」  松谷富彦

(71)百二歳こころ躍らす神のたまもの  日野原重明

  引き続き往復書簡を『冬の薔薇 立ち向かうこと恐れずに』から引く。

 日野原先生へ〈祖母が大学芋を作ってくれました。蜜をたっぷりかけた大学芋を食べていると、祖母が懐かしそうに昔のことを語り始めました。

「子どもの頃は、お米の配給もほとんどないし、毎日蒸したサツマイモやジャガイモばかり食べる日々。芋づるも食べた」と。…妹と畑に捨てられていたくずジャガイモを拾いに行くと、畑の人たちは何も言わず、優しく見守ってくれた。けれど、家で蒸したくずジャガイモは芽を取るのを忘れ、祖母と妹はソラニン中毒になったそうです。…『はだしのゲン』では、ゴボウよりも細いサツマイモを少しかじっただけで、鼻血が出るまで殴られた場面がありました。…僕は、今、食べている大学芋を、タイムマシンがあれば昭和の祖母に届けてあげたいなと思いました。 甘藷食む昭和の祖母に届けたき〉(凜)

小林凜君へ〈凜君が昭和生まれの祖母を想う句に惹かれて 閉じた目に流れる涙はしわ伝い――顔のしわに流れる涙はお礼の涙。明治生まれの私の祖母は私達家族のケアに感謝して、涙してこの世を去った。…〉(重明)

 日野原先生へ〈先生がされている音楽劇『葉っぱの四季フレディ』の記事を読みました。自分が散る寸前にフレディは散ることに対して「怖い」という感情を持っていましたが、僕は、散ったり死んだりすることはもう一つの始まりだと思います。 フレディが落ち葉の国から降臨す 八歳の時の句です。「命はめぐる」。フレディもまた春になると青々とした葉に生れ変わるのだと…。〉(凜)

 日野原さんは百二歳記念に音楽劇『葉っぱの四季フレディ』の脚本を書き、各地で上演した。人間は老いて、最後には死を迎える。〈死について考えることは、命について考えること〉を訴えるために。

 凜君へ〈「死」を思う時、私たちは自らが与えられた時間の貴重さ、「生」の意味にあらためて気づかされるのです。 百二歳ゴールではなく関所だよ〉(重明)