はいかい漫遊漫歩    松谷富彦

(228)白梅や天没地没虚空没  永田耕衣

  俳人・永田耕衣の最晩年について、宗田安正著『最後の一句――晩年の句より読み解く作家論』(本阿弥書店刊)から簡潔、要を得た報道記事的な名文を引く。

 〈 平成7年(1995)1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災。神戸市須磨の永田耕衣上田荷軒は倒壊。耕衣が2階のトイレに入った直後だった。その狭い空間が幸いして奇蹟的に無事。閉じこめられ、傍らにあった湯こぼしの銅器で手洗い台を叩き、救いを求めた。そのうち調子が出てきて音にリズムまでつけていたという。気づいた近所の青年がトイレの窓から救出。階下の家人は重傷。耕衣自身は、2年半後の命終まで、終の栖になった大阪府寝屋川市の特別養護老人ホームに移った。〉このとき耕衣95歳。

 永田耕衣は明治33年(1900)現在の兵庫県加古川市尾上町今福に生まれ、大正6年(1917)、兵庫県立工業学校(現・兵庫県立工業高校)機械科を卒業して、三菱製紙高砂工場に技手補として就職。

 2年後、作業中に抄紙機に右手を巻きこまれ、3指の自由を半ば失う。治療を兼ねて郷里に滞在中、泉福寺で行われた師家雲水の禅問答を聞き、このことを契機に禅に興味を抱くようになった。大正9年(1920)、赤坂ユキヱと結婚、この年から毎日新聞兵庫版の俳句欄(岩城躑躅選)に投句を始め、同11年から大阪の俳誌「山茶花」、岩木躑躅主宰の「いひほ」に投句。

  昭和2年(1927)、岩木躑躅を選者に迎えて、俳句仲間の相生垣秋津、宮當岳坊と「桃源」を創刊。同時に武者小路実篤に心酔して「新しき村」の機関誌に短編小説や自由詩などを寄稿するほか、原石鼎主宰「鹿火屋」、小野蕪主宰「鶏頭陣」、「鹿火屋」系統の大久保鵬鳴主宰「たかむら」などに投句。同10年(1935)、工場内で俳句に関心のありそうな仲間に声をかけ、「蓑虫」を創刊、主宰。同好者40名余りを育て、「鶏頭陣」に優秀な詠句者を送り込んだ。

 生活の糧である三菱製紙の仕事を製造部長で定年になるまで真面目に勤めながら、耕衣の俳句、短歌、骨董、篆刻と多趣味、多彩な発展ぶりは戦後へと続く。

   昭和21年(1946)からは、沢木欣一が原子公平らと創刊した「風」に投句。翌年に現代俳句協会が設立されると会員に。この年、平畑静塔、西東三鬼、波止影夫らの肝いりで大阪に「近畿俳句会」が発足すると、耕衣は集会に参加、橋本多佳子、赤尾兜子、桂信子、下村槐太、波止影夫、火渡周平らの俳人と知己になる。石田波郷の「鶴」、山口誓子の「天狼」、沢木の「風」と渡り歩いた耕衣は、昭和24年、49歳の時に創刊、主宰した「琴座 (リラざ)」を97歳で没するまで続けた。

   耕衣が俳句結社を遍歴したのは、なぜか。俳句評論の坂口昌弘は、著書『毎日が辞世の句』(東京四季出版刊)で〈 耕衣は多くの俳句結社の同人となり、自分に合う師や結社を求め続けたが、「これでなきゃという人に会っていない」という。〉と記す。

   耕衣は90歳で現代俳句協会大賞、91歳で詩歌文学館賞を受賞するまで、無冠の大俳人だった不思議。坂口は『毎日が辞世の句』で書く。〈 受賞という面で評価が遅れたのは、観念句と思われていたからであろう。精神性・霊性の強い作品は、一般的に評価され難いところがあるのは、選者・選考委員に精神性・生命性を理解できる俳人が少ないからであろう。〉と。

   耕衣は、親しくしていた詩人・俳人・歌人の高橋睦郎に、物理学者カプラの『タオ自然学』が読みたいからと頼んで本を送ってもらっている、と坂口は言い、〈 耕衣は晩年には芭蕉が尊敬した荘子の考えを含むタオイズムに深い関心を持っていたようだ。物理学とタオイズムには共通点が多い。キリスト教、仏教、儒教に比較して、老荘思想や道教神道は造化・自然に逆らわない無為自然の思想だから、自然科学と矛盾しない点が見られる。…ノーベル物理学賞の受賞者ニールス・ボアや湯川秀樹は『荘子』の影響を受けている。〉と書く。

 タイトル句〈 白梅や天没地没虚空没 〉と〈 枯草や住居無くんば命熱し〉は、阪神・淡路大震災を詠んだ句である。大震災詠句について次話に続ける。(敬称略)

(229)枯草の大孤独居士ここに居る   耕衣 

 俳人・永田耕衣の俳句と言えば、前話で挙げた大震災句以外では、左記の句を思い出す向きが多いだろう。
夢の世に葱を作りて寂しさよ

かたつむりつるめば肉の食い入るや

朝顔や百たび訪はば母死なむ

水を釣つて帰る寒鮒釣一人

野を穴と思い跳ぶ春純老人

少年や六十年後の春の如し

 俳人・宗田安正の鑑賞を『最後の一句』から引く。〈 《葱》はかない夢の世に葱を作る営みの根源的、宇宙的寂しさ。《かたつむり》の物に徹した超リアリズム。《朝顔や》の母への愛。《水を釣つて》は道元「正法眼蔵山水経」のパロディ。〉〈 「天狼」時代の根源俳句の論作の代表的存在になった時期の詠句で、耕衣俳句の一つの頂点に達した作品。〉

〈 《野を穴と》の句は《純老人》の造語で成功した。死(しに)欲(よく)・強(こわ)秋(あき)・秘晩年・夢殻など、耕衣は造語の名手。《少年や》の句についての「少年性と老年性相通のエロティシズム」とは、高橋睦郎の名評。〉

 前話で紹介した2句をはじめ大震災を詠んだ耕衣の句は、〈 高齢にもかかわらず、震災後、精一杯に生きる姿が被災者を勇気づけた。〉と坂口昌弘。〈老齢の大俳人の受難と、それをはね返す前向きの俳句と生き方は話題を呼んだ。〉と宗田も言うように当時、メディアが次々に取り上げたことは特筆に価する。

 大震災の翌年暮れ、遠路、関東から見舞いに来る高橋睦郎への手土産に門下の金子晉が「色紙の用意でも」と勧めたところ、「昨日こんな句ができた」と渡したのが、タイトルの〈 大孤独居士 〉句。〈 以後、耕衣は句を作らず文字通りの最後の句、最後の揮毫になった。〉と宗田は記す。(敬称略)