古典に学ぶ㉝
『伊勢物語』のおもしろさを読む(21)
─ 東国章段の結末・十四・十五段 ─
実川恵子
男が深夜のうちに帰ってしまったのは、「腐ったれの鶏」が鳴いたからだと勘違いした女の田舎っぽく、激しい口ぶりの歌に辟易したからか、昔男は、女に「都に帰ることになりました」と言って、次の歌を贈る。
栗原の姉歯の松がもし人であったら、都へのお土産に「さあ、一緒に行きましょう」と誘うのですけれど。
「栗原」は現在の宮城県北部の郡名で、「あねはの松」はその地にあった有名な松である。姉歯の松が、もし人間であったなら都に連れて帰るのに、そうでないのが残念だ、というのだ。女を姉歯の松にたとえており、おまえさんがもし人並みの女だったら、都にも連れていけるのだけれど、これではねえ、と女があまりに粗野な田舎人であることを皮肉っているのである。
ところが、当の女は、男の皮肉を理解する能力もなく、逆に喜んで、「あの人はやっぱり私のことを思ってくれていたんだわ」とある。たぶん男の歌を、本当はあなたを連れて都に帰りたいのだけれど、そうもいかないのが残念だ、という意とでも受け取ったのだろうか。本段では、都から遠い陸奥の国の女を、徹底的に田舎者としてさげすんだ書き方がなされている。これは、都人の洗練されたみやびと対極にある存在としてここに描き出そうとしているとも言える。
さて、昔男が陸奥の国の女と関係する話はもう一段ある。次の第十五段である。
むかし、陸奥国にて、なでふことなき人の妻めに通ひけるに、あやしう、さやうに
てあるべき女ともあらず見えければ、
しのぶ山しのびてかよふ道もがな人の心のおくも見るべく
女、かぎりなくめでたしと思へど、さるさがなきえびす心を見ては、いかがはせんは。
この章段では、昔男は、どうということのない人の妻のところに通っていたとある。夫のある女性との関係は、第二段の西の京に住む女のことが思い浮かぶ。もしかしたら男はこの女にその人の面影を見たのかも知れない。たいした身分も地位もない人の奥さんだが、妙に、そんな平凡な人の妻である女ではないように見えたので、こんな歌を贈った。
この陸奥の国の名所の信夫山ではありませんが、忍んでこっそりと通う道があるとい
いのに、こんな田舎に住むのは不似合いに見えるあなたのお心の奥が見えるように。
この歌を見て、女はかぎりなくすばらしいと思ったけれども、いったい男はそんな野蛮な東国人の心を見てどうするのだろう、とあって、最後は語り手のコメントがある。「えびす」というのは、「東 (あづまえびす)夷」のことで、東国人を蔑視した言い方である。この東国章段では、田舎人を蔑視する語り手の評言がしばしば見える。そんな田舎の女と付き合う男の行状に対しても、とても厳しい評価がなされている。つまり、この物語が、、都人によって、都人のために書かれたものだからである。
この第十五段で東国章段は終わり、次の第十六段からは都での話となっている。昔男が、東下りの旅から帰ったいきさつについては何も語られず、初段から続いたストーリー性のある昔男の歌物語は突然途切れた形になっている。第十四段には、男が陸奥の国の女に向かって「京へなむまかる」と言っているので、都に帰る時期が近いことを匂わせているが、次に第十五段で陸奥の国の人妻との恋が描かれているので、「京へなむまかる」といったのは、女の粗野な歌の詠みぶりに落胆した昔男の女と別れるひとつの方便とも解される。
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