自由時間 ㊷ 俳句問答 続 山﨑赤秋
前回に引き続き正岡子規の「俳句問答」か ら勉強になる問答をもう一つ紹介する。
○問 俳句で理屈を言うことはよくないこととすでに伺っていますが、どういうものを理屈というのかあえて質問いたします。また、その例として理屈の最もわかりやすい句と、理屈が隠れていて最もわかりにくい句と、理屈の少しもない句を示して下さい。
答 理屈とは、感情では感じることができず知識に訴えてからはじめて解るものをいう。しかし、俳句(またはその他の文学)において全く知識を働かせることを許さないというわけではない。例えば、記憶は知識に属するけれども、短時間の記憶はほとんど感情と区別することができないので、これを用いることは構わない。つまり私が理屈というのはこういう細微な知識を含まないものである。 だから、理屈の多い句は、何ら面白い感じを 起さないので、これを無趣味とも趣味が少ないとも評するのである。例えば、『つつしめや火燵にて手のさはること(春澄)』のような、理屈ばかりを並べたものは無趣味の極みである。ある人は、これを教訓の句として珍重するが、教訓というのは理屈の内であるから文学にはならない。また、少し理屈のある句の例をあげれば、『駒牽の木曾や出づらん三日の月(去来)』というのがある。これを勘定の句だとして芭蕉は笑った。勘定というのも理屈の内である。この句は、多少の趣きがあるので、前の春澄の句などと同じには論じてはならない。ただし、駒牽きは木曾などから駒を牽いて京に上り、京では8月15日に駒迎えの式があるので、3日ごろに木曾を出立したのであろうと想像しているところが勘定すなわち理屈となる。しかし、これは全く空想の句ではなくて、作者は8月3日の月を見てふと駒牽を連想し、最後に『木曾や出づらん』 と想像したのである。かつ、この想像は単に理屈の上で想像したのではなくて、三日月と最もよく配合すべき材料を取ることができたものであるというべきで、もしこれを理屈無しとして吟ずれば微妙な感も起こすことができよう。思うにこの句が何となく多少の理屈があるように見えるのは句の表面に想像であることを表したからである。もし中七を改め て、『木曾を出づるや』『木曾を出でけり』『木曾出てゆくや』などとすれば、句は拙くなるかもしれないが、理屈は全く消え去るはずである。
○問 俳句で理屈を言うことはよくないこととすでに伺っていますが、どういうものを理屈というのかあえて質問いたします。また、その例として理屈の最もわかりやすい句と、理屈が隠れていて最もわかりにくい句と、理屈の少しもない句を示して下さい。
答 理屈とは、感情では感じることができず知識に訴えてからはじめて解るものをいう。しかし、俳句(またはその他の文学)において全く知識を働かせることを許さないというわけではない。例えば、記憶は知識に属するけれども、短時間の記憶はほとんど感情と区別することができないので、これを用いることは構わない。つまり私が理屈というのはこういう細微な知識を含まないものである。 だから、理屈の多い句は、何ら面白い感じを 起さないので、これを無趣味とも趣味が少ないとも評するのである。例えば、『つつしめや火燵にて手のさはること(春澄)』のような、理屈ばかりを並べたものは無趣味の極みである。ある人は、これを教訓の句として珍重するが、教訓というのは理屈の内であるから文学にはならない。また、少し理屈のある句の例をあげれば、『駒牽の木曾や出づらん三日の月(去来)』というのがある。これを勘定の句だとして芭蕉は笑った。勘定というのも理屈の内である。この句は、多少の趣きがあるので、前の春澄の句などと同じには論じてはならない。ただし、駒牽きは木曾などから駒を牽いて京に上り、京では8月15日に駒迎えの式があるので、3日ごろに木曾を出立したのであろうと想像しているところが勘定すなわち理屈となる。しかし、これは全く空想の句ではなくて、作者は8月3日の月を見てふと駒牽を連想し、最後に『木曾や出づらん』 と想像したのである。かつ、この想像は単に理屈の上で想像したのではなくて、三日月と最もよく配合すべき材料を取ることができたものであるというべきで、もしこれを理屈無しとして吟ずれば微妙な感も起こすことができよう。思うにこの句が何となく多少の理屈があるように見えるのは句の表面に想像であることを表したからである。もし中七を改め て、『木曾を出づるや』『木曾を出でけり』『木曾出てゆくや』などとすれば、句は拙くなるかもしれないが、理屈は全く消え去るはずである。
また、ある雑誌を見ると、『名月や裏門からも人の来る』という句がある。ほかに悪いところはないけれど『も』の一字は確かに理屈を含みこの一字のために全句を殺している。『も』というのは、2個以上のものを対照するものであるが、この句の表面には1個だけ現れている。他の1個はこの裏面にあるもので、すなわち『表門からも人の来る』ということである。従って、この句を言い換えれば『名月の夜は表門からも裏門からも人が来た』という事実を現したものとなろ。 しかし、その事実は一目で見ることのできない場所とやや長き時間を必要とするものであるから、人は知識の上に事実を納得するにとどまり、感情の上に趣味を感ずることはない。
思うに、長時間の記憶と2カ所以上にある事物とを同時に心頭に呼び起こすのにはたくさ んの知識が要るからである。もし、単に『名 月の夜人裏門より来る』というその一場の光景を言えば佳句となるであろう。今試みに、『裏門を叩く人あり今日の月』と改めよう。
また、全く理屈のない句をあげれば、『 音なして畳に落つる椿かな(呂誰)』『褌に団扇さ したる亭主かな(蕪村)』『舟の灯の草にうつるや岸の露(梅谷)』『足もとへよるや枯野の鶴の影(旦水)』のとおりである。
俳句に理屈は禁物。よく覚えておこう。
- 2024年11月●通巻544号
- 2024年10月●通巻543号
- 2024年9月●通巻542号
- 2024年8月●通巻541号
- 2024年7月●通巻540号
- 2024年6月●通巻539号
- 2024年5月●通巻538号
- 2024年4月●通巻537号
- 2024年3月●通巻536号
- 2024年2月●通巻535号
- 2024年1月●通巻534号
- 2023年12月●通巻533号
- 2023年11月●通巻532号
- 2023年10月●通巻531号
- 2023年9月●通巻530号
- 2023年8月●通巻529号
- 2023年7月●通巻528号
- 2023年6月●通巻527号
- 2023年5月●通巻526号
- 2023年4月●通巻525号
- 2023年3月●通巻524号
- 2023年2月●通巻523号
- 2023年1月●通巻522号
- 2022年12月●通巻521号