自由時間 (78) 首里城炎上 山﨑赤秋
10月5日、熊本地震(2016・4)で屋根瓦や石垣が崩れた熊本城・大天守の外観の修復が終わり、あの壮麗な姿を間近で眺めることができるようになった。復興への道はまだ半ばであるが、熊本の人々を元気づけ、勇気づける出来事であった。そういう嬉しいニュースを聞いた矢先、那覇から衝撃的な悲しいニュースが飛び込んできた。
10月31日、首里城の正殿ほかの主要建物が焼失したのである。御庭(うなー)と呼ばれる縞模様の美しい中庭を囲む建物があらかた灰燼に帰した。正殿の焼け跡前に、石造りの阿形・吽形の大龍柱が焼け残って立っているのが哀しい。
首里城は今までに四回焼失している。
①1453年、琉球王国成立後24年、王位継承をめぐる乱がおこり、その戦火で焼失。(3年後再建)
②1660年、失火により焼失。(12年後再建)
③1709年、失火により焼失。(6年後再建)そして、
④1945年、沖縄戦により焼失。
沖縄戦では、日本軍が首里城の下に地下壕を造り、そこに陸軍総司令部を置いたため、米軍の格好の標的となり、3日間、軍艦からの砲撃を受けて、5月27日に焼失した。(司令部は夜陰に乗じ、雨の中、南部に撤退する。残された重傷兵約5000名は首里城の地下壕で自決したという)
その5年後、首里城跡には琉球大学が設置される。しかし、首里城の再建は戦後間もなくからの沖縄の人々の悲願であった。1958年、守礼門が再建されたのを皮切りに周辺の建築物が次々と再建される。そして、琉球大学の現キャンパスへの移転が始まると、本格的に首里城再建計画が動き出す。正殿とそれを囲む建物の再建がなったのは、1992年のことであった。
中国や日本の建築文化の影響を受けつつ、琉球独自の意匠を持った朱い正殿は、南国の真っ青な空に映えて息をのむ美しさだ。2000年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」がユネスコの世界遺産に登録された。沖縄の各地に残る琉球王国の城跡や玉陵・識名園・御嶽など9ヶ所が対象である。(首里の場合も城跡であって正殿ほかの建物は含まれない)
首里城復元計画は今年1月の御内原(おうちばら)の復元をもって完了したばかりだった。御内原とは国王一家とそこに仕える女官たちが暮らした生活・儀礼空間で、一般人の立ち入りは禁止されていたところである。また、2年3ヶ月を要した正殿の外部の漆等の塗り直しが昨年11月に完了し、色つやを取り戻したばかりだった。それが火災に見舞われたのである。沖縄の人々の衝撃は如何ばかりのものであったろうか。
今回の首里城炎上は、当然、悲しい大事件として沖縄の歴史に記録されることになるが、思えば、沖縄の歴史は決して平坦なものではなかった。17世紀以降は苦難の歴史を歩んだ。災いは、海の向こうから、日本からやってきた。特に次の3件は、ヤマトゥンチュ(本土の人)としても知っておくべき出来事である。①薩摩藩島津氏による琉球侵攻、②明治政府による琉球処分、③沖縄戦と戦後の米軍統治、である。
琉球は、琉球王国として統一される前から各諸侯が明と冊封関係を結び、朝貢貿易を行っていた。冊封とは、明の皇帝が周辺諸国の君主と君臣関係を結び、従属させるという関係である。周辺国は明に貢物を献上し、明はそれに倍する返礼品を下賜した。それが朝貢貿易である。琉球は、それを中心に東アジアから東南アジアにまたがる中継貿易国として大きな利益をあげていた。
それに目を付けた薩摩の島津氏は、琉球を自らの支配下に置くことをもくろみ、ついに徳川幕府に琉球出兵の許可を求める。幕府としても明との関係修復のために有益かもしれないと考え、許可してしまう。
1609年、薩摩軍3000名は、奄美群島を制圧しがら南下し、沖縄本島に上陸する。琉球王国が戦なれしている薩摩藩の相手になるはずがなく、1週間後に降伏。翌年、国王は江戸に連れていかれ、秀忠から、琉球王国の存続は認められるが、島津氏へ納税することを命じられる。自治体制こそ維持できたものの、薩摩藩からは在番奉行が送られ、その実効支配を受けることになった、つまり搾取されることになったのである。
そして明治時代、かろうじて独立国の立場を守ってきた琉球王国は、自治を失うことになる。1872年、いわゆる「琉球処分」が始まる。明治政府は琉球藩を設置し、琉球国王を琉球藩王にして侯爵とした。廃藩置県に向けて清国との絶交などを求めたが、藩王は従わない。そのため、1879年、処分官と随員・警官・兵士あわせて約600人が首里城に入城し、首里城を明け渡させ、琉球藩の廃止および沖縄県の設置を布告する。ここに、1429年から450年続いた琉球王国は滅亡させられたのである。
昭和に入ると、日本のアジア侵略構想のもと、沖縄は本土防衛の前線基地として位置付けられる。そして1945年3月、米軍が上陸してからは、沖縄は地獄と化す。米兵を含め20万人が犠牲になった。
1951年のサンフランシスコ講和条約により、日本は主権を回復したが、沖縄は取り残されて引き続き米国の施政権下に置かれた。米軍は沖縄を太平洋の要石として位置付け、基地機能の拡大を図った。沖縄が日本に復帰したのは、1972年のことである。現在、在日米軍施設・区域の70.3%が沖縄に集中している。それは沖縄県の面積の8.1%にのぼる。
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