自由時間 (86)  ジョージ・フロイド殺害事件             山﨑赤秋

   5月25日(この日は戦没将兵追悼記念日で休日)の夕方、アメリカ中西部の北、カナダとの国境に接するミネソタ州の最大都市ミネアポリス(人口43万人)のとある食料品店で、黒人の中年男性がたばこを買った。その時使われた20㌦札が偽札なのに気付き、店員は店を出て彼の車に近付き、たばこを返すように迫ったが応じない。店員は、警察に「酔っ払いが偽札を使った」と通報する。間もなくパトカーが到着する。警官2人はその男性を車から下ろし、後ろ手に手錠をかけ、歩道に座らせる。通りの向こうに止めてあったパトカーに連行し、乗せると、「閉所恐怖症だからいやだ」と逆らう。おとなしくしていないので、応援に駆け付けた警官2人が、男を引きずり下ろし、パトカーの横にうつぶせに倒し、左膝で男の首を押さえつける。男は何度も「息ができない」と叫んだが、警官は膝を緩めない。動かなくなってからも緩めなかった。救急車が来てようやく緩めたが、7分46秒が経っていた(当初は8分46秒と伝えられたがのちに訂正)。男はこと切れていた。男の名前はジョージ・フロイド(46)といった。
 周りに多くの目撃者がいて、中にはこの一部始終を動画で撮影していた人がいた。それがSNSで流され、TVでも繰り返し報道された。衝撃は大きかった。
 翌日、警察は、当事者の4人の警官を休ませていたが、夜になって解雇した。首を押さえつけていた警官は殺人罪で、あとの3人は殺人幇助罪で起訴された。
「ジョージ・フロイド・プロテスツ」という名でよばれるようになった抗議運動が全米に広がり、警察が違法行為、人種差別、特権的免責、残虐行為をやめるように訴えてデモを繰り広げた。参加者数は米国史上最大の規模にまで膨れ上がった。
 この運動は米国だけにとどまらず、世界各地にも人種差別反対運動として広がった。(日本では、沖縄、福岡、大阪、京都、名古屋、東京でデモ行進があった)
 新型コロナウイルスのパンデミックで人々にストレスがたまっていたためであろうか、そのはけ口を求めるかのように、デモ行進だけにとどまらず、さらなる行動にエスカレートする。
 各地の広場や公園に、いわゆる偉人の彫像や記念碑が立っているが、その中で人種差別主義者と目された人々の彫像や記念碑が破壊され、撤去され、あるいは塗料などで汚された。(インディアンを虐殺し、奴隷商人であったコロンブスの彫像も30以上が撤去された)
 また、そうした偉人たちの名前を冠した学校、図書館などの公共施設の名称が変更された。(名門プリンストン大学は、元学長で元大統領であったウッドロー・ウィルソンの思想や政策が人種差別的だったとして、その名前を冠した学部と学寮の名称を変更した)
 人種差別主義者の彫像や記念碑の破壊・撤去運動は、海を越えてイギリスやベルギーなどにも飛び火した。
 ベルギーでは元国王レオポルド二世(1835―1909)がやり玉に挙がった。アフリカのコンゴを私領とし、過酷な圧政をしいて、原住民を死に追いやったからである。彼の圧政下、3,000万人いた人口が900万人に減ったという。いくつかあった彼の彫像は、ペンキをかけられたり、放火されたりして、すべてが撤去された。
 イギリスでも、多くの彫像や記念碑が、汚されたり、撤去されたりしたが、一番ひどい扱いを受けたのは、エドワード・コルストン(1636―1721)の彫像である。南西部の港湾都市ブリストルの中心街に立っていたのだが、デモ隊によって引き倒され、ペンキを塗られ、引きずられ、港に投げ込まれた。
 彼の彫像が立てられたのは、国会議員で慈善家だったからである。学校、救貧院、病院、教会などに莫大な寄付をしていたのである。しかし、最近になって、彼の富は、実は奴隷貿易によってもたらされたものであることが明らかになった。彼は、イギリスの奴隷貿易を独占していた王立アフリカ会社の役員であり副総裁を務めたこともある。在籍12年間で、84,000人の奴隷が西アフリカから南北アメリカに送られ、多くの富を得たとされる。(奴隷貿易で稼いで慈善活動で名を残す。こういう人もいるのだ)
 イギリスの奴隷貿易は、植民地アメリカの発展を支える労働力の供給を意図したものであった。たばこ・砂糖・綿花などのプランテーションでは、多くの労働力を必要とする。その労働力となったのは、西アフリカの黒人である。イギリス商人は、西アフリカにあったベニン王国に武器を供与し、それで奴隷狩りをさせ、その奴隷を買い上げ、アメリカに運んだ。アメリカからは砂糖・たばこ・綿花をイギリスに運び、イギリスからは綿織物を西アフリカに運び、西アフリカからは黒人奴隷をアメリカに運ぶ。この三角貿易をイギリスは独占し、莫大な利益を得て富を蓄積する。この富により、イギリスは産業革命を達成することになる。
 大西洋をまたぐ奴隷貿易は、15世紀末にポルトガルが先鞭をつけ、遅れてスペイン、フランス、イギリス、オランダが参入した。
 イギリスで奴隷貿易禁止法が成立したのは1807年のことで、各国も追随した。奴隷制度の廃止は、イギリスでは1833年、各国が続き、最後に廃止したのはブラジルで1888年のことである。
 西アフリカから、南北アメリカに送られた黒人奴隷は、合計で約1,000万人と推計されている。