韓の俳諧 (70)                           文学博士 本郷民男
─ 亞浪の第二回旅行④─

臼田亞浪は一ヶ月近い満洲の旅を終えて、1935年10月18日午後2時に、奉天(今の瀋陽)から、安奉線の列車に乗りました。国境の安東(今の丹東)までの路線です。釜山までの直行列車まである時代でした。午後9時に安東で停車すると、案内役の西村公鳳が乗り込んできました。全線ガイドの石原沙人はお役御免ですが、慶州を見たいと最後まで同行しました。車内で通関があり列車は再び動き出して、鴨緑江を渡りました。
 国境の駅が新義州で、京城まで京義線となります。平壌は寝台で寝ている内に通過したようですが、瑞興(ソ フン )や新幕(シンマク)などは「石楠」の会員が多いので、駅に止まるごとに同行者が増えました。亞浪は目が覚めると深い霧で、山々の秋の深さを思いました。
霧底の草の紅葉をちらと眼に
 19日の午前10時35分に京城へ着き、数10名の出迎えを受けました。すぐに、南山の朝鮮神宮へ車で行きました。前回は神宮へ昇格して未だ3年の時に行ったのですが、木々も育って神宮らしくなっていました。
畏れしや二度の詣での山紅葉 
 11時20分には、備前屋旅館へ入りました。けれども、午後2時からは新聞社を歴訪し、夕刻にはラジオ放送を行いました。中央放送局で6時25分から7時までです。ところが、亞浪は原稿をゆっくり読み上げ、時間の観念がありません。やむなく亞浪にお引き取り願ったのですが、予定時間を大幅に超過しました。最後は花月別荘での「石楠」晩餐会となりました。酒ですっかり赤くなった亞浪は、「棚のだるま」を披露しました。「棚の達磨を下ろしたり、鉢巻きさせたり、転がしたり」といった端唄があるので、亞浪は歌いながら踊ったのでしょう。
 次の20日には、博文寺と徳壽宮(ト クスグン)に行きました。博文寺は暗殺された伊藤博文の霊を慰めるとして、日本式に建てた寺です。跡地が、新羅ホテルになっています。朝鮮神宮も壊され、何と博文を暗殺した安重根(アンジュングン)の記念館が、社務所跡に建てられました。徳壽宮では霜に萎えた牡丹
が印象に残りました。
霜くひし牡丹の葉はもかげろへる
 徳壽宮の本来の名は、慶運宮(キョンウングン)です。朝鮮王朝の末期に高コジョン宗が慶運宮に移り、国号を大韓帝国として、皇帝になりました。そして、ロココ様式でイオニア式柱の石造殿を作りました。亞浪はこの石造殿を見ました。石造殿が完成したのが1909年で、高宗は1907年に強制的に譲位させられ、1910年に大韓帝国は日本に併合されました。