韓の俳諧 (12)                           文学博士 本郷民男
─ 点取を愉しむ人々 ─

 『俳諧鴨東新誌』九号(明治21年9月)の表紙の裏に月並点数表があり、「二六〇(260点)箕山、二三〇(230点)其令、二一五(215点)塘雨…、一五〇(150点)五兮、一五〇(150点)山翠…」となっています。全国の投句者に伍して韓半島から、三位に塘雨、十五位に五兮と山翠が入っているのです。
 これらの点数は、前回に書いた七号から計算したものです。月並は毎月の行事ということで、月並俳諧は元禄時代に遡ります。点数を付ける点取は和歌の時代からあり、芭蕉の高弟の其角ですら行っていました。『俳諧鴨東新誌』九号には、次のように韓半島の人の句が載っています。

風の巻 九十点
山一つながめ尽くして秋の暮 柏軒
月の巻 九十点
雁渡る下に見出しぬ佐渡ケ島 塘雨
花の巻 七十五点  
月遊ぶ風おとなしき芒かな 蒲帆
鳥の巻 七十五点
鴨立や江尻に暮るる捨筏 柏軒
雪の巻 五十点
初秋の空あしらふや根なし雲 塘雨
風の巻 二十五点
落ちて行く鮎の見え透く夕日かな 塘雨
 江戸時代の月並俳諧の速度は、驚異的でした。引札というビラを配り、そこには兼題、宗匠名、期限、届け先、投句料などが書いてあります。それを見て投句するとすぐ選句し、入選句や俳号を書いた返し草を同じ月の内に配ります。返し草には引札と同じく、翌月の投句要領も書いてあります。引札や返し草は木版印刷で、版木を陽刻します。
 明治の俳句雑誌は返し草を活字印刷にしたもので、投句は次の号に載ります。『俳諧鴨東新誌』は点数まで付けるので、適当量の組ごとに百点満点で採点し、その組内を点数順に並べました。そうすれば、終わった組から植字に回して版ができます。風の巻や月の巻といった優雅な組名にし、全体を「源氏の部」と呼びました。翌月あるいはその月の内に、点数を合算して表彰しました。後には、浮舟の巻や初音の巻といった源氏五十四帖を思わせる巻名に変えました。
 当時の点取俳諧で有名だったのが、四世金羅です。人来鳥(ひとくどり)つまり鶯という雑誌が残り、それで金羅の評点法がわかります。上から感吟、五客、六印、五印などと採点しました(『人来鳥』第一聲、明治23)。点取俳諧では点印を押すので、その名残の大雑把な評価です。これに対し、慶應義塾や大学南校(東大の前身)など多くの学校の中退魔であった上田聴秋は、百点満点という近代的な採点をしました。
 初期の俳人の手がかりは、ほとんどありません。ただ、明治24年になると、対馬塘雨という投句が出てきます。つまり、韓半島で初代の点取王であった塘雨は、もともと対馬の人で、後に故郷の対馬へ帰ったのだと思われます。