韓の俳諧 (29)                           文学博士 本郷民男
─ 京城の江戸川会 ─

 『京城日報』には、いろんな形で俳句が載っています。明治から大正にかけて江戸川会という句会があったことが、僅かな痕跡からわかります。『京城日報』の大正4年(1915)9月8日版に、次のような記事が載っています。
   江戸川会
 同人の送迎には、大抵江戸川で飯を食ひながら出鱈目の一句づつも作つて、大に笑ふのが吉例である。我等同人はこの数年来一人死し二人去りして余す所僅かになつてしまつた。これはこの2、3年殆ど会合をせぬ為め、陳腐するのみで新陳代謝が無かつた為めであつた。ところがまた玉雪君が突然江戸へ去ることになつた。いよいよ減つてしまつて何だか最後の一人を送るやうな気がするのである。6日の夜京都から来遊した泰山君を一緒に迎へて、一夕大いに食つて笑つた。飲むもの只烏堂一人、然し飯も一人前は優に平らげた。
  留別
いよよ立ち惜しむ南山も秋になり玉雪
  即吟
相見れば相知ると夜の長きかな泰山
ここら秋立つ里幣の雪幣の山 玉雪
四人下戸一人上戸の今年酒烏堂
  送玉雪君
大陸を踏み帰る君江戸の秋虎耳
瓢簞の蔓に背くや糸瓜虫烏堂
玄界を打ち越えて長し松の花野目池
 この句会報を書いた烏堂(中村富次郎1875~1952)は、京城の税関官舎九号に住んでいた税関の役人です。烏堂だけ酒豪で、下戸の四人と送別の句会を開きました。烏堂は1896年頃から俳句を始め、子規の没した直前には、子規庵で子規に学びました。虚子や碧梧桐とも交流があり、ことに碧梧桐の新傾向俳句に親しんでいました。
 烏堂は特段の学歴がなかったものの、上代日本語や言語学を独学で研究し、晩年に帰国して多くの著書を著わしました。新傾向俳句の一到達点がルビ俳句で、烏堂は『紀元』の俳人として、こんな句も作りました。
木斛新芽古葉(メバシフラ バ)し井梅雨(シ ト ド)うに漬桶浸(モ ノシ)てし日數(ヒサ) 
(改造社『俳句講座第八巻』101頁)
 目池(松尾茂吉)は京城府黄金町に住み、『京城日報』の編集長で、在職のまま没しました。目池は烏堂の盟友のようで、句会に同席し、烏堂の原稿を載せました。『ホトトギス』の作家である吉野左衛門が、1910年から1914年まで『京城日報』の社長でした。しかし、碧梧桐や旧派に近い目池が大番頭だったので、『京城日報』が『ホトトギス』系であるとは言えません。
 虎耳(江口虎次郎)も京城府明治町に住んでいました。江戸川会の江戸川とは、ソウルを流れる韓江(ハンガン)でしょう。南山は海抜265mの山で、今はソウルタワーが建っています。