韓の俳諧 (51)                           文学博士 本郷民男
─ 修行時代の日野草城④ ─

 日野草城は1913年(大正2)に、尋常小学校を卒業して、京城中学校へ入学しました。この学校は慶熙宮跡の西側部分へ1908年に開校しました。慶熙宮は、朝鮮王朝十五代王の光海君(クヮンヘグン)が、1617七年から20年に造営した宮殿です。光海君は王らしくない名ですが、王名を追贈して貰えず、王子時代の名しかありません。
 光海君は先代宣祖(ソンジョ)の側室の次男ですが、王世子(皇太子)でした。1592年に日本でいう文禄の役、韓国では壬辰倭乱と呼ぶ豊臣秀吉の侵攻で、国土が焦土と化しました。宣祖は秀吉軍が来る前に逃げ回りましたが、光海君は勇敢に戦いました。即位後も名君というべき業績を残しましたが、反対派が仁祖反正(インジョパンジョン)という反乱を起こし、光海君は廃位・流刑となり、王名の追贈がないのです。なお、次の仁祖は明から清への政権交代を見誤り、清に反抗しました。怒った二代皇帝太宗が大軍を率いて来襲しました。仁祖は三田渡(サムジョンド)に設けた式場で太宗に三拝九拝して、命乞などの許しを請いました。太宗は今後の教訓の為として高さ4メートルの巨碑を建てさせ、今も三田渡碑として残っています。本来は光海君が仁祖と呼ばれ、仁祖はただの綾陽君(ヌンヤングン)と呼ばれるべきでした。
 朝鮮王朝の中心の宮殿は景福宮(キョンボックン)ですが、1572年に焼けてから使えない状態でした。1865年(高宗2)から68年にかけて、高宗(コジョン)の父で実権を持っていた興宣(フンソン)大院君(テウォングン)が、景福宮の再建をしました。経費節減で、盛んに移築をしました。廃王・光海君の慶熙宮を廃宮にしても良かろうという論理で、慶熙宮の多くの建物が、景福宮に移されました。宮殿を中学校に転用するのは今の感覚では許されませんが、こうした背景がありました。
 慶熙宮の正殿は崇政殿(スンジョンジョン)で、さすがに残っていて、講堂や体育館として利用されました。ただし、1926年にそれも移築され、今は東国大学校の校内にあります。草城は後に、
廃宮や玉階朽ちて白菫
の句を詠み、慶熙宮ことに崇政殿の荒廃を表現しました。白菫はソウルの南山で京城中学校教員の土井寛暢が発見して、「南山スミレ」と命名しました。今の植物図鑑にも、ナムサン・チェビッコ(南山菫 Viola dissecta var.chaerophylloides)として載っています。土井は植物よりも蝶の権威で、共著の『原色朝鮮の蝶類』の他、多数の論文を残しました。土井が博物学を教え、親友の井出青牛が京城中学校にも南山スミレがあるのを、標本とともに土井に報告しました。余談ですが、慶州の南山にも南山スミレの群落があります。白から薄紫の可憐な花です。