韓の俳諧 (8)                           文学博士 本郷民男
─ 朝鮮国 通事の俳句(補遺) ─

 これまで、朝鮮国通事の俳句研究といえば、李元植(イウォンシク)氏の『朝鮮通信使の研究』くらいしか無いと思っていました。しかし、安修賢(アンスヒョン)氏の「通信使行(トンシンサヘン) 東萊府(ト ンネブ) 倭学訳官(ウェハクヤククァン)と 日本(イルボ ン)詩歌文化」『港都釜山』第35号、2018年という論文には、朴徳源(パクトグウォン)の「泰平や具足の餅のかびる迄」が紹介されるなど、少し進んだ研究が書かれていました。安修賢氏は藤原定家の研究者で、歌人・俳人です。俳句宗主国?の人間として、それより遅れたものを書くわけにいきません。調べていく内に岡部良一氏の研究を知りました。
 岡部氏は、朴徳源の記録を丹念に拾い出しました。たとえば、『韓国古書画図録』に収録されている個人蔵の墨蹟(『青丘学術論集第21集 朝鮮通信使関係資料目録』138頁にも収録)です。その最後に「壬子春。朝鮮学宮掌議。朴徳源」とあります。壬子年は、この目録でも寛政4年(1792)かとし、岡部氏が主張されるように1792年で間違いないと思います。
 次に、学宮は最高学府の成均館の別名であるとされました。調べてみると、成均館(ソンギュングァン)を泮宮(パングン)、太学(テハク)、学宮(ハククン)と呼びました。『礼記(ら い き)』巻四 王制に、「大学在郊(こうにあり)。天子曰辟雍(へきよう)。諸侯曰頖宮(はんきゅう)」とあって、周代には王のための大学が辟雍、諸侯のための大学が頖宮でした。
 掌議も岡部氏の指摘でわかったのですが、成均館の学生である儒生の自治組織・斎会の会長格の役職で、1785年に刊行の『太學志』に書かれているようです。掌議は三十歳以上という規定があり、1792年に朴徳源は四十歳くらいと岡部氏は推定しました。
 朴徳源は俳句や和歌だけでなく、漢詩文や書もすぐれ、各地に墨蹟が残っています。訳科の試験に合格できなかった朴徳源ですが、東京大学出のオーバードクターといった抜きんでた学識の持ち主でした。
 また釜山の草梁倭館の『館守日記』が、『宗家文書』(対馬藩主の宗家資料)の一部として国会図書館にあります。その86分冊、寛政8年(1796)62コマに、「東向寺禅蔵主事、当春渡候の節、以酊庵一老より、詩作言伝り、徳源え相渡候処」とあり、対馬以酊庵の輪番僧から預かった漢詩に、朴徳源が応酬をしました。東向寺は寺である以酊庵の末寺で、草梁倭館の施設です。『宗家文書』を岡部良一氏が解読中です。
 幕府も対馬藩も、次第に財政難になって、朝鮮通信使の規模を縮小しようとしました。1811年の通信使は、江戸でなくて対馬止まりとなりました。。交渉の途中で、対馬藩では朝鮮国の通事を買収し、文書を偽造しました。偽造が発覚し、朴徳源は処刑されました。軽輩ながら有能で顔も広かったための悲劇です。