韓の俳諧 (9)                           文学博士 本郷民男
─ 韓の発句を掘り出す ─

 人が発見した資料を紹介するだけでは芸がないので、今回は自分で発掘したものを御紹介します。『四海句双紙』に我が国の俳人の俳句があるらしいと、韓国の人が書いていました。なるほど、『俳文学大辞典』にも、『四海句双帋(しかいくぞうし)』の項が立てられ、朝鮮・琉球・中国人・オランダ人の句まで広く収録するとあります。『四海句双紙』は画家で俳諧を余技とした白川芝山が、初編から5編までの5冊を刊行したものです。芝山の生没年は不詳で、1808年に渡辺崋山が芝山から絵を学んだことで名を残しました。ただ、崋山少年は家が貧しいので芝山に絵を学んで家計を助けようとしたのですが、金が払えずに破門され、すぐに別の師匠に付きました。
 『四海句双紙』は国会図書館でも、1819年の4編を所蔵しているだけです。その巻之中の「四季発句之部」に、中国人2句、琉球人5句が並んだ次に、「朝鮮 卒翁」の

竹うゑて資格とどくかや世の人も

という句があります。はどうしても読めません。『四海句双紙』で他の編というと、2編を早大図書館でデジタル公開していますが、2編には琉球人3句があるだけです。ともあれ『四海句双紙』は見せてもらうのもそう容易ではなく、韓の人の俳句を翻刻した人もいないと思います。
 これと別の国会図書館で所蔵している文献に、2句書かれているのを知りました。桑名藩士の駒井乗邨(こまいのりむら)(1766~1846)が残した『鶯宿雑記』の214巻です。『鶯宿雑記』は1815年から没するまで書かれ、本文が568巻、目録が1巻あります。目録の214巻に、「朝鮮人の発句」とあります。私の解読では
樽こけて海の満くる汐干かな
白雨やすぐはひかかる雲の群
 桑名の人がどうして外国人の発句を知ったかといえば、田口栄一「『鶯宿雑記』内容紹介と索引」『参考書誌研究』第36号を見れば氷解するでしょう。乗邨は白河藩主の松平定信に用人などとして仕えました。老中の首座として寛政の改革を断行したあの殿様で、松平家がたくさんある中の久松松平家です。定信は失脚して息子に藩主を譲りましたが、久松松平家が以前に領主であった桑名への国替を希望し、息子の代の1823年から桑名藩となりました。
 乗邨は俳人で雑学の人でした。幕府第一の実力者に仕えたので、幅広い情報に接することができたでしょう。『鶯宿雑記』の目録を見ると、俳諧に関する記述が豊富です。発掘ということで申しますと、江戸時代で最高の考古学書『集古十種』は、松平定信の編纂です。若くして失脚した定信は家臣に学者を集め、130もの本を著しました(安藤菊二「八丁堀雑記十一」『郷土室だより』51号)。乗邨は耳学問の人と思われますが、実に良い職場にいました。