鑑賞「現代の俳句」(102) 蟇目良雨

 

竹酔ふといふ日しづかに雨降れり 梅村すみを[沖]

「沖」2016年10月号

 中国の俗信に陰暦5月13日に竹を植えると枯れないで根付くというのがある。これが日本では梅雨時にあたるので盛んに実行された。竹植う、竹移す、竹酔日(ちくすいじつ)、竹迷日(ちくめいじつ)、竹誕日(ちくたんじつ)、竹養日(ちくようじつ)などがこれである。〈降らずとも竹植うる日は蓑と笠 芭蕉〉「笈日記」は、5月13日の外出には雨が降っていなくても蓑と笠を準備しなさいという、まさに日本の梅雨どきの景色を詠んだものである。掲句はこの日に雨がしずかに降っていますよと言っているだけであるが、竹の移植に相応しい静かな雨に降られているとも、その作業を見守りながら静かに酒を酌んでいるとも思え風流につながる一句になった。

 虫干しの軸よりひびく波の音 三枝正子[一葦]

「一葦」2016年7/8月号

 貴重な本などを風や日に当てて虫害や黴から守ることが虫干し。エアコンや除湿機が発達した現代はあまり行われないようだが、貴重な書や掛け軸などは風を当てるのであろう。掲句は虫干しに取り出した軸を鴨居などに懸けて風を当てていると、軸に描かれている絵から波音が聞こえてくるようだと言っている。響くほどの波音というのだから白砂青松の海岸に打ち寄せる波音と想像していいのではないだろうか。作者にとっては思い出深い一品であることが想像できる。

炎帝の退位うながす雷ひとつ 能村研三[沖]

「俳句四季」2016年10月号

暑いさなかに雷鳴が一つ聞こえたら暑さが遠のく感じがしたと長々と散文で書くところを十七文字でいとも易々と表現した技倆に感心した。技倆だけでなく、それでいて新鮮なのは多くの句を詠み、多くの句を閲しているからであろう。退位という言葉づかいに作者のやさしさが籠められていると感じた。

スプーンに掬ふはたのし雲の峰 松尾隆信[松の花]

「松の花」2016年10月号

 作者はスプーンで何を掬っているのであろうか。まさか雲の峰ではあるまい。いや、雲の峰を掬うという豪快な光景も面白いかもしれない。実際は雲の峰を眺めながら氷水の山を掬っているのかも知れない。雲の峰を前にすると〈厚饀割ればシクと音して雲の峰 中村草田男〉の句が眼前にチラチラする経験をお持ちの方も多かろう。それに挑戦する作者の意気込みのようなものを感じたが、雲の峰まで掬えそうな大らかさが読む人に安らぎを与えてくれる一句になった。

羽抜鶏大阪弁は嫌ひなり 森岡正作[沖・出航]

「出航」2016年10月号

暑さにうだっている羽抜鶏が大阪弁の人に執拗にからかわれていて距離をとったことを「嫌い」と看做したのかもしれぬ。執拗にと書いたのは大阪弁と他の方言を比較すると大阪弁のほうがはるかに執拗に感じられるのではないだろうか。

 機関銃のように休む間もなく言葉を連ねて来るのは大阪弁である。一方、作者は秋田弁で実に言葉が少ない。よく例に出されるが「どこさ」「ゆさ」だけで、「何処に行くの」「湯に入りに行くよ」という会話が成り立つ秋田弁。そんなことからこんな鑑賞になったが間違っているかもしれない。しかし掲句の「嫌ひなり」を読者がそれぞれに解釈したら楽しいこと請け合いである。

うたたねの夢へも祇園囃子かな 才野洋[嵯峨野]

「俳句」2016年9月号

 羨ましい限りの一句。まどろんで転寝をして見ている夢の中に祇園囃子が聞こえて来たという。一度はこうした経験をしてみたいと思うのは私だけであるまい。東京あたりから京へ行って祇園祭を見ようとしても宿の確保も覚束ない。転寝をする贅沢などどうして出来ようか。こののんびりさは京のお住まいの方にしかできないと感じた次第。祭の雑踏を離れて静かに家居している光景が浮かぶ。

苔の上蟻引つかかり引つかかり 石田郷子[椋・星の木]

「俳句」2016年9月号

 苔の上を歩く蟻を観察していたら、引っかかり引っかかりながら歩くことを発見したのが掲句。地面を歩くときは感じられない光景なので驚いた作者の様子が出ている。蟻の生態をドキュメントしたテレビなどを見て私達は蟻の体の作りをある程度知っている。足の裏にトゲトゲがあり木の登り降りを不自由なく行っていることも知っているが、苔の上を歩くとき何故引っかかりながら歩くのか不思議に思う。高野素十の〈甘草の芽のとび〳〵のひとならび〉に連なる自然の真をこの句が示していると思った。

体内の森ひらきゆくきりぎりす 鈴木多江子[雲取・貂]

句集『鳥船』

きりぎりすがチョンギースと鳴いたとき自分の心の中にある森が入り口を開けてきりぎりすを受け入れたようだと鑑賞してみた。人はそれぞれ心の中にふるさとが植え付けてくれた森や山や湖や海を持っているのではないだろうか。私の心の中には北武蔵の丘陵の中の小川がいつも流れている。何かがあるとその小川で沢蟹や蜆などを取って遊ぶ我を発見する。

 作者にとっても心の中の森はとっておきの隠れ場だったのではないだろうか。きりぎりすの声が久しぶりに入口を開けてくれたのである。

大文字雨にひるまず燃え上がる 名村早智子[玉梓]

「俳句四季」2016年10月号

 京の人たちだけでなく日本中の人が待っていた大文字だが、今年は強い雨が降り見る人を落胆させたと思う。NHKテレビが実況番組を組み私も見入っていた。強くなる雨にも関わらず点火準備を進める人たちの働く姿が印象的であったが、遂に掲句のように大文字は次々と点火され、京の夜空に燃え上がったのである。作者だけでなく「雨にひるまず燃え上がる」大文字に感動したのであった。

小鳥来る若者背負ふもの大き 和田順子[繪硝子]

「繪硝子」2016年10月号

 庭に小鳥が来ると一気に明るくなるように感じられる。小鳥たちの鳴き声が普段より一オクターブも高くなったように、感じられ、かつ賑やかになるからだ。小鳥たちは中国大陸やシベリアの東端からやって来るものもある。あの小さい体でよく長旅に耐えるものだと感心する。ところで作者は若者の現在について考えている。かつては世代間の引継ぎはピラミッド型の大きい底辺にある若者が大勢で上部にある少ない高齢者を支えていたのが、今や逆ピラミッド構造になってしまい、少ない若者が大勢の高齢者を支える構図になっている。若者が背負うものが大き過ぎると懸念しているのである

(順不同・筆者住所 〒112-01東京都文京区白山2─1─13)