鑑賞「現代の俳句」 (10)                    沖山志朴

春昼の水に逆立つ鳥の足長島衣伊子

[朴の花 第113号より]
 多くの水鳥はすでに北国への渡りを終え、渡らない軽鴨が何羽か静かな春昼の池で餌を採っている光景であろう。軽鴨は、水底の藻や沈んでいる木の実などをよく食べる。採餌の光景は、水中に逆立ちしているかのようで、見ようによっては滑稽でさえある。
 鳥の体の大方は水中に隠れていて、見えるのはわずかな尾の先と、水面や宙を蹴るようにしてバランスをとっている足のみである。作者の視点は、その逆立ちしている鳥の足の奇妙な動きにくぎ付けになる。鳥の足は、餌を採るためにまさに必死に生きている姿の象徴なのであるが、作者にとっては、その動きがなんとも興味深く、しばし眺め入る。

探しもの夕かなかなに励まされ八染藍子

[廻廊 令和3年9・10月号より]
 高齢になると物忘れがひどくなり、しょっちゅう探し物をするようになる。さんざん探したあげく、思わぬ所からひょっこり出てきて、嬉しいやら、情けないやらで、複雑な心境になるもの。
 大切な書類か品物なのであろう。夕方になるまで、長時間探し回り、疲れ果てたのであろうか。心細くなってきたところに蜩の声が聞こえてきた。その澄んだ鳴き声を聞いていると、何だか心が落ち着いてきて、よし、また探してみようという心境に立ち戻る。

梅雨明けの流木にある龍の貌松尾隆信

[松の花 令和3年11月号より]
 実朝に「時により過ぐれば民のなげきなり八大竜王雨やめたまへ」というよく知られた歌がある。八大竜王とは、八竜神のことで、水の神のこと。
 龍のような貌をした流木、おそらくかなり激しい梅雨の雨であったのであろう。根こそぎ流された大木を想像させる。近年の異常気象による水害は、地球上の多くの人々を嘆き悲しませる結果となっているが、掲句における「龍の貌」は、まさに異常気象や地球の温暖化の恐ろしさを暗示しているように思える。 

はがさんとして空蟬に抗はる島谷征良

[一葦 2021年9・10月号より]
 木の幹や葉の中にしっかりと食い込んだ爪の先、剝がし採ろうとして力を加えても、容易に剝がすことはできない空蟬。そのしぶとい様子を表現した句である。
 掲句の巧みさの一つは、比喩の効果にあろう。「抗はる」というこの簡潔な結びの一語が、一句全体を引き締め、見事に収束させている。空蟬の句は、毎年沢山作られるが、この比喩により類想を抜け出した出色の一句となったといえよう。

やはらかく山を包める枯尾花平賀寛子

[あきつ 2021年冬号より]
 春耕の僚誌「あきつ」の主宰作品。おそらくなだらかな山容なのであろう。一面の枯芒が、真昼の日差しの下に光り輝いている雄大な光景である。
 上五の「やはらかく」は「包める」に掛かる形容詞の連用形である。形容詞を用いると、ともすると主観が強く出すぎてしまう嫌いがある。しかし、掲句においては、抵抗なく作者の発見としてそれを受け入れることができる。冬の景色でありながら、「やはらかく」の語により、そこはかとなく暖かい優しさの伝わってくる、絵画的な句にまとまった。

念入りに猫が顔舐め秋祭柴田多鶴子

[俳句 2021年11月号より]
 猫は自分の体を舐めることによって、抜け毛や体毛についた埃を取り除いているといわれている。そうすることで、体を清潔にしたり、病気を予防したりする効果があるのだそうだ。
 この猫は、どうやらお化粧のためのグルーミングのようである。念入りにおしゃれでもして、祭りの賑わいを眺めに行こうではないか、というところでしょうか。まるで若い女の子の仕草のように見立てたところが俳諧味を生み、ほのぼのとした味わいのある句となった。

風鈴の迷ふ心によく鳴りし中貞子

[俳句界 2021年11月号より]
 何の迷いなのかはわからないが、当人にとっては、かなり深刻な迷いであるご様子。そんな迷い心の襞に風鈴の澄んだ音色が染み渡ってきてふと我に返る。
 普段は何気なく聞いている風鈴の音であるが、心理的に迷いの中にあるときは、その音色がまるで意思を持っているかのように語り掛けてきてくれるから不思議。きつと「落ち着いて、もう一度原点に返ってよく考えてごらん」とでも聞こえたのであろう。

(順不同)