鑑賞「現代の俳句」(109)           蟇目良雨

薺打つ先帝二十九回忌 蒲原ひろし[雪]

「雪」2017年4月号
 見過ごしそうになったのだが二十九回忌がとても気にかかったので再読すると、昭和天皇の二十九回忌に薺を打っている光景を詠んだものだと理解できた。
 昭和天皇が崩御されて二十九回忌に当たる平成29年の1月7日。七日粥のために薺を打っていてふと今日は昭和天皇の二十九回忌であった、宮中では先帝忌が行われているはずだが、私は薺を打って心の中で手を合せようというのが句意。今上天皇の生前退位がいよいよ確定しようとしている今日、平成は29年で歴史の幕を閉じるのか、30年で閉じるのか。掲句は類想句を断固として撥ねつける力を持つ。昭和64年は1月7日で終ったことを今の若い人はもう知らないのではないだろうか。

蒼然と月粛然と斑雪山根岸善雄[馬醉木]

「俳句」2017年4月号
 冴え渡る春寒料峭の夜景。月は青々と天にかかり、 斑雪山は他を寄せ付けぬ偉容を誇って腰を据えている。 漢詩調で自然の厳しさと美しさを見事に詠い切った作者は水原秋櫻子に直かに教えを受けた馬醉木の最古参。 美の壺の作り方を憎いまでに心得ている。

音弾む鎚起の薬缶雪しまく阿部月山子[春耕・万象・月山]

「俳句」2017年4月号
 鎚起作家の雪に閉ざされた工房の仕事ぶりを描いた のが掲句。一枚の銅板や錫板、アルミ板を丹念に鉄の槌で打ち叩いて伸ばしたり曲げたりして器物を成型するのだが、この句の場合は薬缶を形成しているところ。 その槌音を聞くと弾んで聞こえるという。仕事に愛着を持っているから軽やかに槌を打っているのだろうが、 我が子を育てるように作品を作っているからこそ益々音を弾ませて槌を打ち続けるのだと感心している作者がいる。

友二忌やドロップの缶サクマ式鈴木しげを[鶴]

「鶴」2017年5月号
 作者とは同年代を生きて来たので、多分遊びも何も共通項があると思っていた。掲句のサクマドロップも幼い頃によく舐めた記憶がある。今も売っているのだろう大変懐かしく思った。しかしサクマ式の「式」のところで引っかかった。調べてみると戦前まであったサクマドロップは戦後の再出発に当たり商品名に本家の「サクマ式ドロップス」を名乗る会社と「サクマド ロップス」を使用する別々の会社を興し現在に至っているという。「鶴」二代目主宰石塚友二を偲んでの一 句。多分、友二の好物はサクマ式ドロップだったのだろう。いつも携帯していて疲れたときに舐めていたのかもしれない。こんな細かなことから一句を生み出す作者に脱帽。石塚友二忌は二月八日。

冴返る唐門へ踏む四半敷伊東克朗[鶴]

「鶴」2017年5月号
 建築用語を使い句を作ることは多い。煙出(けむだ)し、破風、連子窓、木虫籠(きむすこ)、躙口などなど。庭では延段や雨後 の水溜りを潦と言ったりする。掲句の四半敷(しはんしき)も珍しい用語であろう。土間にタイルや石を貼るときの一形態で目地が進行方向に対し四十五度の敷き方を言う。
 立派な唐門へ進む前に凝った石の貼り方をした通路があるとはどんな所だろうと楽しく想像できる句である。

トランプに占ふ景気春寒し小張昭一[春燈]

「春燈」2017年5月号
 景気をトランプ占いに頼ってみたといえばそれだけの句であるが、アメリカ大統領ドナルド・トランプに頼ると読めば俄然いきいきした句になる。いろいろ物議を醸し出して世界中がひやひやして見守っているかのトランプなので我々も作者同様に春寒く見守るしかないのである。FBI長官を突然解任したことが世界に衝撃を与えている。作者の心配が現実味を帯びてきたようだ。

立子忌やひねもす波の語部に浅井民子[帆]

「帆」2017年4月号
 星野立子忌は3月3日。時は雛祭であるために世の中の人がこぞって立子のことを思い出してくれているように私は思うのである。立子のふくよかなかんばせは天平雛の風貌に似ている。虚子の次女として生まれ虚子がその俳句の才能を高く評価した立子は、四Tとしてもてはやされ実際、俳句界に大きな足跡を残した。作者は波打際に宿をとったのであろうか、絶えることのない波音がひねもす立子のあれこれを語部のように思い出させてくれると思いに浸っているのである。

からかひに取木の枝に来る鳥か中坪達哉[辛夷]

「辛夷」2017年5月号
 取木の最中の枝に鳥が来てつついたり、鳴いたりしている図である。取木とは樹木を増殖させる方法の一つで、樹皮に傷をつけた枝を土の中に強制的に埋めたり、傷付けた部分に栄養分を吸収させるための苔土を巻いたりして、傷付いた樹皮から根を発生させて新たな苗木に仕立て上げることである。そのような取木の枝に鳥がやってきて「変な姿をしているな、お前は。 ギプスを巻いているようではないか」とか「どうだ、曲げられて土の中に埋められているがうまく育っているか」などとからかっているように作者には見えたのである。

まだ夢の途中のさくらしだれけり工藤進[くぢら]

「くぢら」2017年5月号
 この句、何回も何回も読んでゆくうちに場面が様ざまに展開してゆくことに気付く。それは「夢の途中」という措語がたいへん普遍的であることによる効果だろう。主人公は枝垂れ桜が一本。「未だ目の覚めない莟の枝垂れ桜の木が枝垂れている。」「咲き出している枝垂れ桜だがまだまだ夢の途中で満開になっていない。」「満開となり恍惚と夢を見ている途中の枝垂れ桜。」「花を散らしていて侘しくなるわが身に気付かずに過去の栄華の夢の途中にいる枝垂れ桜。」など鑑賞できる。
 「人生はすべて夢」であるという現実を枝垂れ桜に置き換えて言い切ってくれた句と思った。

歌舞伎座庭園阿国桜のしだれ佳き和田順子[繪硝子]

「繪硝子」2017年5月号
 隈研吾氏設計による新歌舞伎座に未だ行ったことがない。旧歌舞伎座は赤絨毯が印象的であったが、新歌舞伎座には庭園があって阿国と命名された枝垂れ桜があるようだ。舞台ならずとも桜の小枝を背負い阿国が踊るさまが庭園に連想される。設計者のそんな意図を思っての一句と想像した。新歌舞伎座に行ってみたいと切に思わせてくれた句であった。

麦の芽や筑波二峰が暾の中に佐怒賀直美[橘]

「橘」2017年5月号
 筑波山の雄峰、雌峰の二峰が昇ったばかりの朝日の中に入って見える麦の芽畑ですよというのが句意。逆光の中に二峰を持つ筑波山のシルエットが美しく、麦の芽が香り立つようである。筑波山の真西に位置する作者のふるさと古河あたりからの眺望として鑑賞してみた。暾(ひ) は「とん」とも言い朝日の別称。

どの道がどの蜷のものこぐらかる小川軽舟[鷹]

「鷹」2017年5月号
 蜷が道を描く模様は見ていて飽きない。始まりがどこで終わりがどこか分からずに見る者を混乱させる。 掲句は複数の蜷を見つけてその道を辿ったのだが、どの蜷の道がどれであったかこんがらがっているので分からなかったと嘆いている。ただそれだけのことであるが「こんがらかる」を「こぐらかる」と雅語を用いたことで句が生き生きした。見習いたい。

(順不同・筆者住所 〒112-0001  東京都文京区白山2-1-13)