鑑賞「現代の俳句」(110)           蟇目良雨

古書店の中ひんやりと花の昼 島谷征良[一葦]
  「一葦」2017年5/6月号

 古本屋が北向きに店を構えていることをうまく利用した句作りと思った。暖かくなったはずの花時の3月末から4月にかけて街に花見の客は溢れても古本屋まで客は流れてこない。店内は花の季節ではあるがひんやりと虚ろになっている。花冷えではなくてもひんやりと感じるのが古本屋の特徴である。

涅槃図の余白に猫の来て泣けり 佐々木建成[天穹]
  「天穹」2017年6月号

 掛けられている涅槃図の下の隅の余白を見ながら猫が泣いているという。「泣く」と敢えて使ったのは、猫も泣いてくれたと作者が感じたのであろう。涅槃図の中に猫が描かれていないのは何故なのだろうか。釈迦は猫をペットとして可愛がらなかったのだろうか。最近の猫ブームを見てそんなことをこの句から思った。

土佐弁の浦人ばかり鶏合 亀井雉子男[鶴]
  「鶴」2017年6月号

 省略の効いた一句。土佐の人たちが浦に集まって鶏合をやっていることがすぐに判る。浦人が仕切っている闘鶏なので荒々しい漁師言葉が飛び交っていることまで想像できる。いつまでも残しておいて欲しい行事である。このような簡潔な句作りを目指したい。

菜飯盛る奈良絵の対の茶碗かな 小林篤子[鶴]
  「鶴」2017年6月号

 この句も印象明瞭である。菜飯を奈良絵の描かれた対の茶碗に盛りましたということ。対というのであるから夫婦茶碗になっているのだろう。素朴な奈良絵と菜飯が色彩的にもよきバランスをなしている。対の茶碗に菜飯を盛ったということは一方は仏壇に供えたということも考えられる。もしそうだとしても思い出深い茶碗であることに違いはない。

遠き日の釘差し遊び春の土 篠田たもつ[対岸]
  「対岸」2017年6月号

 この句に共感を覚える人は昭和20年代後半にいわゆるガキであった人だと思う。柔らかい土に五寸釘を打ち込んで相手の釘を倒したり、釘の軌跡が描く領土を競ったりする遊びである。時代は朝鮮戦争で日本が特需景気に湧き立ったころである。春の土が動かない。同時に思い出すことは金偏景気で、金属が高くなり小学生高学年になっていた私たちは磁石を持ち歩いてどぶ川の中に落ちていた鉄くずを拾い集め屑屋に売って小遣い稼ぎをした。

松籟の一番奥の巣箱かな 藤本美和子[泉]
  「泉」2017年6月号

 風の吹き抜けるような爽やかな一句。松林の一番奥に巣箱がありましたと言っているに過ぎないが、松林の奥深さ、静けさ、爽やかな風が吹き渡ってくることさえ感じさせる。言葉を削いで削いで削ぎぬいた結果の髄から発する香気を感じさせる。

川風になりきる夕のしらはぐさ 朝妻力[雲の峰]
  「雲の峰」2017年6月号

 「しらはぐさ」は茅(ちがや)のこと。湖沼の周辺に繁茂する。穂絮が飛ぶと茅花流しとなる。掲句は川の土手にある茅で川風に吹かれて揺れている。その揺れ方は穂と葉がさまざまにばらばらに見えたのであるが、夕方になり辺りが暗くなるにつれて葉は視界から消え白い穂のみの動き方が川風のなすままに見えて来たと作者は感じたのだ。「しらはぐさ」の採用が柔らかな調べを一句に齎してくれた。

 東京はガラスの器春日落つ鍵和田秞子[未来図]
  「俳句」2017年6月号

 都市を形容した例句として〈新宿ははるかなる墓碑鳥渡る 福永耕二〉がある。耕二は新宿に出来たての高層ビルを墓碑と見立てた。この句が作られてからはや50年近く経ち新宿副都心の、そして首都東京の発展は凄まじいものがある。建築技術の向上で総ガラス貼りのビルは珍しくなくなった。東京全体がガラスの器であるという表現があながち嘘とは言えない現実がある。ガラスの器を輝かせながら春日が落ちてゆく。無機質であるが美しいものは美しいと作者は思っている。

囀りに山河色めき立ちにけり 大串章[百鳥]
  「俳句」2017年6月号

 鳥たちが囀り始めると山河が目覚めて色めき立つように思えたというのが句意。自然界は全てが連携し合っている。芽吹きとともに鳥たちの恋の季節が訪れ、山も河も色どりを始める。何ひとつ無駄な動きは無い。
 そう、誰かが交響曲のタクトを振っているのだ。囀りは主旋律か、河のせせらぎの音が大きくなりある時は小さくなる。時折山から吹く風音が全体を支配する。こうして交響曲「囀り」は進行する。

(順不同・筆者住所 〒112-0001  東京都文京区白山2-1-13)