鑑賞「現代の俳句」(115)                     蟇目良雨

 

裾の灯を清めて御山洗かな橋本榮治[馬醉木]

「馬醉木」2017年11月号
 日本人ほど雨の呼び方に凝る民族はいないと言われる。
 冬に入って降る雨に「液雨」「氷雨」「小夜時雨」「片時雨」「寒九の雨」など様々な呼び名が付けられている。狭い土地ながら地形の複雑さが日本の雨の降り方に影響を与えている。御山洗とは登山の季節を終わった富士山に降る雨の名前で、九月頃に降る雨。多くの登山者で汚れた富士山を洗い清めてくれると信じられている。裾の灯とは麓の紅灯として鑑賞したら面白い。

曼珠沙華冷めたき蕊を張りにけり雨宮きぬよ[枻]
「枻」2017年11月号
 曼珠沙華のあの横に伸びて長くぴんと張った蕊を「冷たき蕊」と把握した句。「冷たき」とは秋冷の感じも含まれるだろうが、曼珠沙華の取りつく島のないようなよそ行きの蕊の張り具合から受ける感じをうまく表現したと思った。曼珠沙華は唯我独尊の花であることを改めて思い起こされた句である。

雲低く速し岬に残る稲架千田一路[風港]
「風港」2017年11月号
 稲刈の済んだ能登の晩秋の光景であろうか。岬まで隙なく耕してきた米作り農家の方々の努力が言外に出ている。日本海から厚い雲が低く速度を上げて押し寄せてもうすぐ能登は冬支度に入る。この句の独特のリズムが句に深みを与えている。蕉門の丈草の〈木枕の垢や伊吹に残る雪〉のリズムを思い出した。

貸杖の出払つてゐる山の秋柏原眠雨[きたごち]
「きたごち」2017年11月号
 「山寺」という前書きがあるが、山の霊場へ大勢の人が出かけている様子がわかる一句である。山寺登頂は杖を頼りに八百数十段を登らなくてはならない。同時作〈上まではあと五百段蟬はやす〉は丁度蟬塚の辺りであろうか蟬の鳴き声に揶揄われていると作者は感じているところに諧味がある。

誰にでもある土壇場や鵙の声鈴木節子[門]
「門」2017年11月号
 油断して過ごすと取り返しのつかない一刹那が誰にでもある。うかうかしていると自然界において鵙に襲われて鵙の贄になるようなものであると作者は警告している。鵙の声は小動物にとっては恐ろしく聞こえる。

取つてけとばかりに石榴四五個垂る朝妻 力[雲の峰]
「雲の峰」2017年11月号
 無花果、柿、石榴などは嘗て大方の家に植えられていて店頭に売られるようなことは無かったように思う。
 競って食べた果物なのに、最近ではもっと美味しい果物が店頭に並んでいるので無花果、柿、石榴などの果物は見向きもされなくなってしまった。見事な石榴なのであろう、手の届きそうな高さに四五個垂れ下がっている。昔のように「取ってけ」と石榴の呟きが聞こえるようである。

鶏頭にざらざらと雨来てゐたり増成栗人[鴻]
「鴻」2017年11月号
 鶏頭に雨が「ざらざらと」降るとは言い得て妙である。鶏頭の質感を現すのに雨の質感を代用して言っている。
 一般的に鶏頭の表現には「拳のように」とか「鶏冠のよう」という比喩が使われる。掲句は鶏頭の形で無く肌の感触がざらざらしていることから作られた句である。攻め方の勝利といえる。

墨吸ひて紙の機嫌や小春の日岡崎桜雲[涛光]
「俳句界」2017年11月号
 掲句のような感触は筆を持つと理解できる。紙と墨の濃さと筆にどのように墨を含ませるかで作品は変わってくる。ペンキ屋の看板文字は画一の墨の濃さで書き上げなければならないが、書は濃いところ薄いところ掠れるところと変化の連続である。墨の乗りは材料にもよるが体調や気象条件にも影響を受ける。小春の穏やかな日和に最上の紙と墨の関係を得られて作者もご機嫌である。

十秒を切りたる天の高さかな松本誠司[寒雷]
「俳句界」2017年11月号
 天高しの季語から思い浮かぶのは秋天のもとに繰り広げられるスポーツの場面であろう。その中で「十秒を切る」場面は、百メートル競走で十秒を切った日本人初の桐生祥秀(よしひで)選手の快挙を称えての一句だと思う。我々の世代は「暁の超特急」吉岡隆徳の十秒三、飯島秀雄の十秒一が日本人の到達出来た最速だと信じてきたが、最近のスポーツ科学からのアプローチで十秒を切るのは時間の問題とされてきたのであった。
 9月9日、第86回天皇賜盃日本学生陸上競技対校選手権大会(福井運動公園陸上競技場)男子100メートル決勝において、追い風1.8㍍の条件の中、九秒九八を記録。伊東浩司の持つ日本記録十秒〇〇を19年ぶりに更新し、日本人史上初の九秒台スプリンターとなったのである。多くの若者が十秒を切る能力を持つとされているなんて日本人も捨てたものでは無い。

(順不同・筆者住所 〒112-0001 東京都文京区白山2-1-13)