鑑賞「現代の俳句」 (12)                    沖山志朴

秋扇無言の妻に語りかけ蟇目良雨〔春耕〕

[東京ふうが 令和3年秋季号より]
 春耕の蟇目良雨主宰は、俳句誌「東京ふうが」の主宰でもある。周知のように長い間病床にあった奥様を昨年の11月に亡くされた。あまり口にはされないが、この間、想像を超える辛いものがあったであろう。
 病状がしだいに悪化し、やがて意識もなくなり、昏睡状態の妻。秋扇で意識のないその顔を扇いでやりつつ、いつものように今日の出来事などをぽつりぽつりと語りかける。現実としては、その言葉は病者に伝わらなくても、作者の精神世界においては、その意識は十分に繋がっているのであろう。語り掛ける言葉に、返事が返ってきたのであろうことも想像できる。季語に揺るぎがなく、しみじみと心を打つ句である。

餅を焼く餅と話をするやうに奥名春江〔春野〕

[俳壇 2021年1月号より]
 何とも言えない郷愁のようなものが伝わってくる句である。子供のころ、遊び疲れて帰ってきた夕方、火鉢や囲炉裏で焼いて食べた餅を思い出す。もうそろそろ焼けるか、少し膨れてきたぞ、ちょうど食べごろか、と独り言を言いながら、餅を見つめる。
 技法として、倒置法や擬人法、比喩が用いられ、餅の語も繰り返し使用されている。これらの効果により、童話のような明るい雰囲気が一句に漂い、懐かしさに心が和む句となった。 

風強き山頭火忌の芒原木暮陶句郎〔ひろそ火〕

[俳句四季 2022年1月号より]
 母や弟の自殺、酒造業の失敗。やがて、酒で身を持ち崩し、雲水姿で各地を放浪する山頭火。〈分け入つても分け入つても青い山〉〈けふもいちにち風を歩いてきた〉そんな句も残している。掲句は、写生句というよりも、心象としての風景であろう。
 茫洋たる一面の芒原、強い風にまるで荒波のように荒れ狂う芒の白い穂。そのような光景の中を、一人さ迷い歩く雲水姿の山頭火の姿が思い浮かんでくる。まさに山頭火の人生そのものを象徴した句といえよう。

胸に舞ふ光のかけら黄落期德田千鶴子〔馬醉木〕

[馬醉木 令和3年12月号より]
 「胸に舞ふ」とあるが、実景というよりも、この句も心象としての景と解するのがよいであろう。銀杏や欅の黄葉した葉が次々と光りながら散り落ちるように、心の内にも光りながらしきりに散り落ちてゆくものがあるよ、という。
 一年のうちでも、春の芽吹きのころと、晩秋の黄落のころは、とりわけ人の内面に大きく作用する自然の力がある。芽吹きのころの高揚感とは対照的に、晩秋は、心も次第に沈んでゆく。季節の情感を味わいつつ、進みゆく無意識の心の中での更衣なのでもあろう。

妻来ると思ふ花野に待ちをれば茨木和生〔運河〕

[運河 令和3年12月号より]
 与謝野晶子に〈なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな〉という恋の歌がある。しかし、掲句は亡くなった妻を思う句。同じ作者の句に〈亡き妻が選びてくれし夏帽子〉がある。
 しみじみと詠んだ叙情句。季語の斡旋が見事である。また、倒置法を用いることで一句に余韻が残り、その余韻が切々と心を打つ。高齢社会を迎え、伴侶を失った人も多い。美しく、そして切ない花野の句である。

動きをり枯蟷螂の大目玉甲斐遊糸〔湧〕

[俳句界 2022年1月号より]
 荒涼たる冬の景色の中に動かない一匹の枯蟷螂。色褪せ、生気も失せて渺々と風に吹かれている。そして、ただ大きな目玉だけがぎょろぎょろと動くだけ。
 枯蟷螂を詠っていながら、実は作者の心情の投影のようにも読み取れる。コロナウイルスの蔓延、異常気象、経済の不況。この先、世の中や人類、そして、地球はどのように変化してゆくのであろうか、という悲嘆の目であり、声でもあるとも想像してみた。

初凪を切り裂いてゆく吾が舳先本井 英〔夏潮〕

[俳句 2022年1月号より]
 現鴫立庵の庵主の「庵の春」と題する十二の連作のうちの一句。説明によると咽頭癌、合併症、前立腺癌を次々と克服し「明るい兆し」の中に生きているという。
 ともすると、人は、癌と宣告されただけで、生きる気力すらも失ってしまいがち。しかし、精神的に強い方なのであろう。三度の大病に立ち向かい、見事にそれを克服し、今また未来へと漕ぎ出している。明るく前向きに生きてゆく姿勢が、十七音のリズムに漲っている。

(順不同)