鑑賞「現代の俳句」 (136)                     蟇目良雨

 

茶杓にも櫂てふところ春惜しむ鈴木しげを[鶴]
「鶴」2019年8月号
 私は茶道に詳しくないが、茶杓の部位に名があって櫂というところがあると言っていることは分る。櫂とは舟を漕ぐものであるから、茶道において何をイメージして櫂と名付けたのだろうかこの辺りが知りたいところだ。茶杓は抹茶を掬うための匙の役目をする。茶杓を見るとたしかに匙のように深みがある。一方、櫂は舟を進めるために水を捉えるために窪みを付けてある。すなわち、新しい世界へ誘うために茶杓の櫂は茶を掬い、舟の櫂は水を掬う。作者は光陰の海に櫂を差し入れて春を惜しんでいると納得した。

鰰や嬶座の脇に猫の座も服部早苗[空]
「空」2019年6・7号
 囲炉裏には座るべき人のための場所が決まっていて、時計回りに正面に主人の座る横座、嬶座(かかざ) 、下座、客座がある。長い風習といおうか因習といおうか座の区別は厳然として残っていた。他の座などは作りようが無かったはずであるが愛猫のためなら主人も拒否出来なかったのだろう、猫座がかくして加わったのである。鰰を囲炉裏で焼いているのだろう、猫にもお裾分けがあったに相違ない。

花ふぶき中に停止の虻一つ星野恒彦[貂]
「貂」2019年8月号
 虻の立場になってみたら花吹雪はどのように見え、そして感じられるものなのだろう。満開時の桜に花の蜜を求めて近づく虻。さぞかし花の蜜を堪能できたことだろう。やがて花が散り始めるころやって来た虻。残り少なくなった蜜だが無いよりはましだと捜しては吸い探しては吸い続けた。やがて桜ふぶきの最中にやって来た虻は、在るはずと思い込んでいた蜜に近づこうとすると、自分と同じくらい大きな花びらが風に流されて飛んでくる。次々飛んでくる花びらの礫がぶつかってくるのだ。邪魔ばかりしている。「何故だ‼」と虻は立ち尽くすように空中に停止する。花吹雪は虻にとって迷惑この上ない現象なのだ…と、思わせる一シーンである。しかし、あの花びらで込み合う花吹雪の中で、よくも空中停止中の虻を見つけたものだ。写生に対する執念に感心。

はつなつの足をあづけてオットマン石井那由太[泉]
「泉」2019年8月号
 オットマンは足置き台が付属しているリクライニングチェアのこと。長さも横幅もあり場所を食うのでオットマンを置ける家は少ないのではないだろうか。勿論、年中そこにあるので季語にもならず、もしかしたら家の中の邪魔者扱いにされている懼れもある。そんなオットマンに「はつなつの足」を預けてみたというのだ。はつなつの足というのだから素足と思っていいだろう。革製のオットマンならひんやりと楽しむことが出来たことだろう。「足をあづけて」にオットマンを頼る作者の気持ちが込められている。

ファゴットに神の低音みどりの夜松浦敬親[麻]
「麻」2019年6月号
 みどりの夜は新緑のあとの緑の瑞々しいころの夜を指す。木々の葉の出す濃き匂いに包まれた夜を経験したことは無いだろうか。もともと「プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ 石田波郷」の句のイメージからみどりの夜が定着したようだ。プラタナスの句は良く分かる。青春の匂いがぷんぷんする。一方、掲句も巧みである。木管楽器の中からファゴットを選んでその低音が神の音であると言っている。みどりの夜にどこかの家の窓から聞こえてくるのはまさに神の言葉のように低音で人に纏わりついてくるファゴットの音なのである。

羽抜鶏同士一羽を目の敵大畑善照[出航・沖]
句集『一樹』から
 羽抜鶏の仲間いじめの句らしい。一羽だけ仲間からいじめられている。ここからは読者が勝手に鑑賞していい。一羽だけが未だ抜けが足りなくて堂々としているのを見てやっかんでいじめているという鑑賞も成り立つ。逆の観点は、一羽が余りにもみすぼらしくいじめられている状況。最近、犬を飼い始めたのだが、家の中で人間家族と一緒に暮らす犬は自身をどう見ているのだろうかと不思議な気持ちになる。羽抜鶏も自身の哀れな姿は見えず他の鶏のことが気になっているのかとこの句から教えられた。

葭切のいちづに鳴けば雛育つ前澤宏光[棒]
「棒」2019年7月号
 葭切の一途な鳴き声が雛を育てるという意表を突いた作品。葭原に見かける葭切であるが、鳴き声を先ず聞き、その姿は時折見かけるくらいである。まして巣にいる雛は専門家でければ見たこともないだろう。しかし考えてみれば悪戯盛りのわんぱくは葭原にずかずか入りこんで雛を見つけたかも知れぬ。懐古の作と考えれば腑に落ちる。親の鳴き方を直ぐ傍で聞きながら育った雛もやがて一途に鳴くのである。

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